難病の息子のため、職をなげうったコバレワ夫妻は、一九九五年に設立した作業所に「のぞみ21」と名付けた。新世紀に幸多かれと願をかけた。その後、夫妻は相次いで息子と娘を失うことになったが、この小さな作業所には、生きがいを求める人たちが次々に集い、そして巣立っていく。
▽ミシンを担当
エレーナ・ラシュキナも、その一人だ。二十六歳。作業所のあるベラルーシのゴメリ市に両親と暮らしている。まん丸の青い瞳。よくポケットに手を突っ込んで、含み笑いをしている。金髪のショートカットから大きなイヤリングがのぞく。その首元には傷あとがある。
チェルノブイリ事故発生の直後、祖母の家に遊びに行っていた。風向きの加減で、原発から約百六十キロ離れていたにもかかわらず、ゴメリ州でも汚染がひどかった街といわれるチェチェルスクに祖母は住んでいた。
半年後、甲状腺に異常があると、医師に告げられる。何の病気か分からないまま手術を受けた。甲状腺がんと診断され、治療のためにイタリアに送られたのは、原発事故から八年も過ぎていた。
甲状腺を全摘出したため、生涯、ホルモン剤を服用しなければならない。薬は今のところ、国からただでもらえる。医療機関の受診も無料だ。ただ、体調がすぐれず、たまに買う輸入薬はすべて自己負担になる。かなり高い。手足には引き付けも起きる。カルシウムを出す副甲状腺まで摘出してしまったのだろう。
作業所では、子ども服などをミシンで縫う作業の担当だ。仕事は楽しい。その割には作業所内をよくふらふらと歩き回っている。ナターシャ(51)は「気分屋なのよ」と笑う。
「子どものころは病気ばかり。将来働けるなんて想像もしなかった」。作業所ができた翌年、十六歳の時からここで働いている。今や最古参だ。
▽結婚を夢見て
作業所では、延べ約五十人が働いてきた。技術を身に付け、別の職場に移る者、ここで働き続ける者、結婚退職…。その後の人生はさまざまだ。
甲状腺がんを摘出した後、作業所で働きながらミンスクの大学に進学した女性、原発事故の取材で作業所を訪れたカナダ人記者と恋仲になり、親の反対を押し切って海を渡った女性もいる。
ソ連崩壊後、多くの同胞とともにイスラエルへ移住したユダヤ人の男の子もいた。脳腫瘍(しゅよう)がチェルノブイリの被災と認められ、支給されていた毎月の手当は海外に住むと、もらえなくなる。出発前、残念そうに話していた男の子の表情がとても印象に残っている、とナターシャはいう。
もちろん、つらい現実も多かった。二十八歳だったナターシャ・シュレポバンは昨年一月、甲状腺がんが肺に転移し、亡くなった。二歳の遺児は祖母が引き取った。取材を申し込んだが、いまも精神が不安定で、それどころでないと断られた。
ナターシャは、そんな悲しみを包み込むように、愛情を込めて言う。「みんな、わが子のオレグやインナと同じように大切なの」
エレーナには大きな夢がある。「結婚して早く家庭を持ちたい」。皮肉ってみる。「作業所を行ったり来たりで、彼氏との出会いが無いんじゃないの」。エレーナは「どうして、そんなことが分かるのかしら。あなたには」と首を振る。
大きなお世話だと憤慨するエレーナに幸多かれ。心の底から願った。(敬称略)(滝川裕樹、写真も)
【写真説明】明るい性格のエレーナ(右)。ミシン作業を担当しているが、頭痛など体調不良が悩みの種だという
|