ベラルーシ南部のゴメリ市。チェルノブイリ原発事故の被災家族のアパートでホームステイを始めて、しばらくたったある日のことだ。ホームステイ先のステファン(54)のおい、ウラジミール・チェボトコフ(38)のアパートに招かれた。
白を基調にした瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気。内装はまだ工事中だったが、リビングに大型テレビ、台所には電気調理器を備えている。電気製品の販売会社に勤めるウラジミールが購入した自慢の新築アパートは、日本円で約四百八十万円。二十年のローン払いというが、ゴメリ市ではなかなかの物件だ。
「稼ぎがいいんですかね」「どうかな、わたしには分からんねえ」。広島から同行している通訳と、ひそひそ話す。まずは、集まってきた家族を前に、自己紹介する。「広島から来ました。同じ放射線による被害を受けた、みなさんの暮らしを取材する目的です」
▽米の犯罪象徴
原爆を知っているのか聞いてみた。「当たり前じゃないか。もちろん学校で習ったよ。当時は旧ソ連時代で、米国の犯罪の象徴という事情はあったけどね」とウラジミール。たたみかけるようにステファンから尋ねられる。「広島にもチェルノブイリのように人が住めない汚染地があるのか」
もう何度目だろう、この質問は。「いや、原爆と原発事故では事情が違うから…」。四苦八苦して答えながら、かつては数十年も草木が生えないと言われた広島の今の街の姿が浮かんだ。
会話はなかなか弾まない。食卓に、ジャガイモをつぶして焼いた郷土料理「ドラニキ」が出る。広島風お好み焼き二枚分ほどの特大だ。食べろ食べろと勧められ、三枚も食べた。
食後に談笑するうち、チェルノブイリについてのうわさが話題に上った。昨年六月、原発で再び事故が起こり、放射性物質が流れ出たという。幼稚園に勤めるウラジミールの妻タチアナ(38)は「外で子どもたちを遊ばせないよう、上から指示があったわね。私はそんなに気にしなかった」と平然と笑って見せる。
だが、ステファンの妻ナターシャ(51)は違った。「聞いた時は、どうしようか、怖くて不安でたまらなかった」。原発事故で子ども二人を失ったと信じて疑わない母親は受け止めが違う。
▽たったの1行
後日、ゴメリ州当局にうわさの真偽を確認した。国内だけではなく、隣国のポーランドからも問い合わせがあったという。担当者は「テレビやラジオ、新聞を通じてしっかり否定したよ」。うんざりした表情で説明してくれた。
さて、アパートでは、ウラジミールが長女のアンナ(15)を話の席に呼んできた。「広島から来たんだ」と説明する。「ああ、そうなの」。その言葉が返ってきたきり話は続かない。「学校であまり教わらなかったんだもの。よく知らないわ」
一年前に習ったという歴史の教科書を持ってきてもらう。ページを繰る。アンナがいたずらをした落書きが残る。一九四五―四九年の項目に、その記述はあった。「広島、長崎に原爆が落とされた」。たった一行だった。
事故から二十年―。広島への原爆投下からは六十一年になる。時が流れても消えない被害者の不安と、惨事が正しく伝えられていない危うさが、ここでも同居していた。<敬称略>(滝川裕樹、写真も)
【写真説明】ベラルーシの歴史教科書を見るウラジミール(右)とアンナの父娘。広島への原爆投下に関する記述はわずかだった
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