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原発事故20年 チェルノブイリに暮らす > 連載 > 汚染地 ベラルーシから
汚染地 ベラルーシから
苦難の夫妻 笑顔で支える鉛色の心 ('06/4/2)

 ▽甲状腺がん 長男亡くす

 旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故が発生し、二十六日で二十年になる。広島型原爆の三百倍の放射性物質が流出したとされる史上最悪の原子力事故は、周辺国の地域社会に深刻な被害をもたらした。記憶の風化が進む中、現地の人たちは何を思い、どんな暮らしをしているのか。核汚染社会のいまを最大の被災国ベラルーシ南部のゴメリ市からルポする。(滝川裕樹、写真も)

 立て付けの悪い窓からのぞく空は、鉛色の雲に覆われている。いつものように雪が降り出した。ロシアとポーランドに挟まれた旧ソ連ベラルーシのゴメリ市。人口四十八万人のこの街に二月下旬にやってきた。

 「欧州最後の独裁者」とも言われるルカシェンコ大統領が君臨するベラルーシは国土の三分の一が放射性物質で汚染された。原発に近いゴメリ州は特に深刻だ。

 ▽同居人を歓待

 旧ソ連時代、航空基地のあったゴメリ市の一角は今、無機質で殺風景なコンクリートのアパートが立ち並ぶ住宅街に変わった。その中の小さな一室が私のホームステイ先だ。

 被爆地広島からの同居の申し出を受け入れてくれたコバレワ夫妻はともにゴメリ市で生まれ育った。食事のたびに、「もっとたくさん食べなさい」と諭す妻のナターシャ(51)と、もそもそとしゃべる夫のステファン(54)だ。

 夫妻は、事故の被災者や障害者の若者が働く作業所を市内で営んでいる。きっかけは血液の難病を患い、二十歳の若さで逝った長男オレグの存在だった。ナターシャは、息子の看病を通じ、白血病や甲状腺がんに苦しむ多くの子どもの存在を知った。

 みんな家に閉じこもっていた。彼らが生き生きと集える場所をつくりたい。十五年勤めた幼稚園を辞め、一九九五年に作業所を設立した。新世紀が希望に満ちますように―。そんな願いを込め、ステファンが「のぞみ21」と名付けた。

 ▽話し終え頭痛

 「たとえば子どもが事故で骨を折っただけでも親の心にはずっと残るでしょう。私たち家族は、あの日の原発事故で、本当に大きな悲しみを背負わされました」

 ステファンの姉でアパートの家主、アンナ(65)を交えた食卓は、そんな重たい過去を感じさせないほどにぎやかだ。この日は水ギョーザのようなペレメーニャが出た。酢をかけるとふやけた皮に染み込みうまい。

 「みんなで食べれば、おいしいだろう」。すかさず、「ダー、ダー(はい、はい)」とうなずく。同居の身を、なにかと気遣ってくれる。

 だが、夫妻の歩みをじっくりと聞いた日。ナターシャは話し終えると、頭痛を訴えて寝込んでしまった。

 事故後、汚染地域の子どもたちに甲状腺がんが急増した。長男オレグは当時、九歳だった。放射能を浴びた子どもたちは、「ハイリスクグループ」と呼ばれ、生涯、甲状腺がん発生の危険性が高まる。健康不安を強いられる人生は、広島の被爆者にも重なる。

 作業所を設立した三年後、オレグはせき込み、やせ始めた。甲状腺がんだった。ドイツで手術を受け、のどの甲状腺を全摘出した。すでに肺に転移していた。「もう効果はない」。放射線治療を施した医者は告げた。術後二カ月、オレグがこの世を去ったのは、大学二年の冬だった。

 ナターシャの話には、続きがあった。夫妻に残された長女インナ。オレグが亡くなって六年後、彼女にも異変は訪れた。(敬称略)

【写真説明】ホームステイを受け入れてくれた家族。左から夫のステファンと姉のアンナ、妻のナターシャ。食卓には笑いが絶えない


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