中国新聞
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第一部 南米編
 10 核から逃避行
 安穏求め「南」選んだ 家族のきずなこそ…



2002/07/11
 ラパス移住地の南西に隣接するフラム市は、スペイン語で言う 「トランキーロ」な町である。本来は「平和で穏やか」との意味だ が、パラグアイでは「こだわらない。なんとかなるさ」の思いもこ める。ラパスより一段と、のどかな表情だ。

 源田賜夫さん(77)と房江さん(70)夫妻が、家族六人で移住を決意 したのは、半世紀近く前の一九五四年だった。  

 ▼「北半球は物騒だ」

 米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験し、第五福竜丸が被災した 年。「水爆が落ちたら日本でひとり、二人しか生き残れんって聞い たよ」と房江さんは目を大きく開いて振り返る。「いつ核戦争が起 きるか。北半球は物騒でかなわん。日本の反対側だったら戦争はな かろう」

 翌五五年、「トランキーロ」の国へ向かった。戦後、賜夫さんが 広島市内で始めた建築業も不景気の荒波にのまれそうだったし、い い機会だった。子どもたちに、あんな恐ろしい目には遭わせたくな かった。

 房江さんは広瀬国民学校高等科二年だった。学徒動員で西区三篠 町の靴工場にいた。一瞬でがれきの下敷きになった。横堀町(現在 の中区榎町付近)の自宅で、両親ときょうだい五人は犠牲になっ た。「お母さんは首の動脈が切れ、乳房もないようになっとった。 ひどい状態じゃったんよ」。

 広島工業専門学校生だった賜夫さんは、安佐北区の芸備線安芸矢 口駅近くのトンネル内にいた。その後入市被爆した。爆心直下の中 区相生橋付近で建物疎開作業をしていた母は全身やけど。油やキュ ウリ汁を塗って看病したが、一週間後に息を引き取った。父と一緒 に、亡きがらを焼いた。「まきがなくて…」。それ以上は思い出し たくない。

 孤児になった房江さんは、生き残った兄と横堀町の焼け跡にバラ ックを建てて暮らした。兄の友人だった賜夫さん一家と共同生活が 始まり、二人は四九年に結婚した。

 九五年の夏。房江さんは、海外被爆者代表として広島市の平和祈 念式典に招かれた。賜夫さんも同伴して帰国した。式典が終わって すぐ帰るつもりが、房江さんは人間ドックで胃がんが見つかり手 術。胃の三分の一を切除した。

 ▼子どもたち巣立つ

 あれから七年。日本ほど医療体制が十分でない移住地。「相当病 気が進行せんと発見もされんよね」。再発が心配だ。

 手術から五年が経過したとき、古里から渡日治療の話があった が、房江さんは「一人はいや」。被爆者健康手帳を持たない賜夫さ んも付き添いたいが、「費用もかかるし、種まきや収穫で、そう簡 単にフラムを離れられんじゃろ」。何しろ往復の飛行機代に、年間 収入の十分の一かかる。

 赤土の道路、広がる小麦畑。平穏な暮らしに子どもたちは立派に 育ち、巣立ちした。いま、五男トーマスさん(32)が設計して建築中 の二階建てに三人で暮らす。「もう年じゃし、特別に望みもない よ。『トランキーロ』言うてねえ、夫婦でのんびり無理せんよう に、健康でおれるようにするんよ」と賜夫さん。

 独特の飾りの付いたキセル風のストロー「ボンビーリャ」で、マ テ茶をすする。 (森田裕美)

 =第一部おわり=

在外被爆者 願いは海を超えて


「もうあんな目に遭いとうない」。南半球での平和な暮らしを願う 源田夫妻(フラム市内)

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