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2002/07/10
移住地「ラパス」はスペイン語で「平和」を意味する。かつて広 島県沼隈町民が集団で移住し、開拓組合が命名した。「南米のパラダイス」「ユートピア」と呼ばれるパラグアイ。首 都アスンシオンから約四百キロ南東のラパス市は、地球が丸いと分 かるほどに、地平線まで小麦や大豆畑の緑が広がっていた。 被爆者の上村寛さん(72)は、在パラグアイ広島県人会長を務め る。一九五七年、一家で三人以上の働き手が必要という移民資格を 満たすため、他人の家族の一員として、単身で移住した。 以来四十五年、汗を流した。原始林を切り開き、開墾し、家を建 て、広島県出身の女性と結婚し、子どもを育てた。電気が通り、今 では衛星放送でNHKも楽しめる。とはいえ、まだまだ移住地を暮 らしやすくしたい。「被爆者だけでなく、移民全体のためを考えた い」。県人会長の自負を口にする。 ▼不安定な社会保障 市内にはラパス診療所があり、ひと通りの医療は施される。しか し手術となると五十キロ先の町エンカルナシオンや、その先の国境 (パラナ川)を越えてアルゼンチンのポサーダスまで運ばれる。 医療費や薬代は、ちょっとした風邪でも日本円で数万円。社会保 障制度は不安定で、民間の保険もあるが、移住地の日本人には行き 渡らない。 上村さんは現在、ラパス農協を拠点に、医療費負担の共済制度や 低金利での貸付制度を充実させたり、年金に代わるシルバー基金が 設けられないかと考えている。 爆心地より七キロ余り離れた川内(広島市安佐南区)の自宅にい た。一瞬の光に驚き、庭に出て、爆風を感じたという。朝、地域の 人たちと爆心直下に建物疎開に出かけた父は帰ってこなかった。川 内には、そうして父を失った母や子が多かった。自分は山陽中三 年。市中心部の建物疎開作業に午後から出かけ、午前の班と交代す る予定だった。翌日、父を捜して焼け野原に向かった。 ▼11歳で長男亡くす 上村さんは、長男を十一歳で亡くしている。二歳で脳膜がんにか かり、眼球を摘出した子だった。「もしか」と遺伝を恐れる気持ち は今もある。ただ、他の四人の子は心配なさそう。 「空気もいい、水もいい、だから健康にいい。自分の体調だっ て、将来悪くなるなんて今は考えたくない」と言い切る。 現在パラグアイで消息がつかめる被爆者は自分のほかに二人だ け。もう二、三人いたが、日本への出稼ぎや南米の他国への移住で 消息は途絶えた。「日本の情報も詳しく入らない。知ったからとい って周りに被爆者も少ない。何しろ健康なのでそこまで実感がな い」と、母国の被爆者援護との違いは、さほど意に介さない。 ブラジルへの出稼ぎ移民の声もかかった。だが、農業労働者とし てより、自ら大地を切り開く農業経営をしたいと思い、パラグアイ を選んだ。 その通りに生きてきた。自分の墓も建て、骨をうずめる覚悟をし た。「私はここで生きていく」。名実ともに平和なラパスをつくり 上げるのが、悲惨な被爆体験を味わった自分の務め、と思う。 |
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