中国新聞
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3   家族の肖像 母の悲しみ受け継ぎ証言 (02/07/29)
両親や妹との写真を手にする綿岡さん(右)と、長女の岩田さ ん。「母は今も家族集合の写真に撮られるのを嫌がります」 picture

  家族六人が全員そろっているのは、この一枚だけという。広島市 中区十日市町に住む綿岡智津子さん(73)は「八月六日の前でした」 と、五十七年前の夏に今と同じこの場所で撮った白黒の写真を見つ めた。

 左端から三女裕乃さん(6つ)、「綿岡大雅園」の屋号で日本茶の卸 問屋を営んでいた父重美さん(45)、母光子さん(38)とひざの上に抱 かれる四女公乃さん(3つ)、二女香代子さん(12)が並ぶ。そして十六 歳だった長女の綿岡さんが右端にいる。

 当時は西九軒町と呼ばれていた自宅兼店の三階。娘四人は夏の装 いで、おめかしをしている。撮影のほんの後とみられる日に起きた ことを尋ねると、重苦しい沈黙が続いた。家族六人が一瞬にして一 人となった。

 「八月六日」月曜日の朝、綿岡さんは爆心七百五十メートルとな る自宅を出て、現在の西区西観音町にあった大東亜食糧興業にい た。その年の春に広島市女(現・舟入高)を卒業した後も、特別専 攻科生として動員が続いていた。マグネシウムのような光がパッと 走ったと思ったら下敷きになっていた。血まみれの同級生を引き出 し、叔父夫婦がいた砂谷村(現・湯来町)に身を寄せた。

 「叔父たちが代わって捜したそうです」。急性心筋梗塞(こうそ く)で九年前に倒れた綿岡さんを気遣い、長女の岩田美穂さん(44) が、幼いころから聞き胸に焼き付く家族の被爆を引き継いで話し た。綿岡さんが結婚後に夫の正雄さん=一九六五年死去=と再建し た、綿岡大雅園を切り盛りする。

 岩田さんから見れば、祖父母と下の叔母二人は自宅で爆死。祖母 と末の叔母は台所跡で抱き合った姿で見つかり、おなか部分の着衣 が焼けずに残っていた。市女一年の叔母は、建物疎開作業に出たま ま分からずじまいになってしまった。  話に耳を傾けていた綿岡さんは、焦土の街に戻り、一枚だけの家 族写真を手にした時に及ぶと、その日をこう再現した。

 「江波にあった写真館の人とばったり出会い、『生きとったん ね。写真があるよ』と言われたんです。それはうれしかったです よ」。家族団らんの姿があった。涙のうちにありし日のぬくもりが よみがえった。

 言い尽くせぬ思いを刻む写真は、パネル写真に引き伸ばされて、 証言活動に生かされている。岩田さんは、原爆ドームを望む本川小 の卒業生で息子二人も通う。被爆校舎の一部を充て十四年前に開設 された本川小平和資料館の運営委員として昨年から、訪れる修学旅 行生らに母の思いを受け継ぎ伝えている。

 「原爆のことは遠い日のこと、今の世界とかけ離れたように思わ れているので、この写真を見せて話すんです。これが私の家族で す。決して昔の出来事じゃないんですよと伝えています」

 人間を消し去る原爆の恐ろしさ、生き残った者をもさいなむ悲惨 さ。三世代にわたる家族の体験として証言する。


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