中国新聞
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2   遺骨不明 行方分からぬ無念さ今も (02/07/27)
「小学校時代の写真を引き伸ばしたんです」と檜山さん。襟元は ピンクの色が添えてあった picture

 「元安川へ飛び込み、そのままだったのか、それとも似島へ運ば れたものやら。想像するだけです」。瀬戸内海を望む広島県大野町 の自宅で、檜山喜美枝さん(92)は、十二歳で逝った長女春惠さんの 遺影を仏壇から取り出すと、抱くようにひざに置いた。「市女に入 りたいと広島に残り、私は下の男の子三人を連れてあの年の三月か ら疎開していたんです」

 当時の住まいは広島市翠町。春惠さんは一九四五年四月、広島市 立第一高等女学校(現・舟入高)に進んだ。檜山さんが「見てくだ さい」と開けた箱からは、布に墨で書いた名札とともに、広島県久 芳村(現・福富町)にいた弟らにあてた春惠さん手製の「慰問帳」 が出てきた。

 「父親と祖母といても、寂しかったんでしょうねぇ。それで一度 戻ったんです」。六月二十日とはっきり答えた。翠町で二晩枕を並 べた。ただ、何を話したのかは覚えていない。「まさか、あれが別 れになるとは思いもしませんから…」

 春惠さんは国の学徒勤労令で八月六日も、現在の平和記念公園の 南側一帯の建物疎開作業に動員されていた。空襲に備え、防火地帯 を設けるため撤去した家屋の後片付け。

 一年生二百七十七人、二年生二百六十四人、おかっぱ頭の少女た ちは、爆心約五百メートルの場所に出ていて全滅した。中国新聞社 は一昨年に遺族の協力を得て、一年生二百四十五人の被爆死状況を まとめた。二百二十八人がその日に亡くなったとみられ、うち百八 十六人の遺骨が不明。肉親に最期をみとられていたのは十二人にす ぎない。

 「主人は原爆で大けがをし、捜してやれなかったんです」。夫の 琢三さん=七四年死去=は市立造船工業学校(現・市商業高)の校 長。爆心一・五キロの舟入本町で被爆した。檜山さんが夫の「広島 には帰ってくるな」という伝言にやきもきしながら戻ると、指の先 からウミが流れ落ちる状態が続いていた。

 造船工業の一年生も市女の生徒と同じ中島地区の建物疎開作業に 就き、二百三人が亡くなっている。「主人は自分の子どもも犠牲に なったのだから申し訳が立つと言っていました」。そう言い聞かせ るしかなかった。

 戦後に女児が誕生し、孫九人とひ孫四人にも恵まれた。買い物は 今も一人でする。かくしゃくと語り続けた檜山さんが「あの子から のお金をいただき…」と口にした途端、みるみる涙声となった。動 員に出て亡くなった学徒は「準軍属」として、国は遺族に年金を支 給している。「ありがたいことです。でも春惠にはやることはでき ないんです。どうしようもないんです」。どこで亡くなったのか分 からない最期に無念さは消えない。

 少女たちが逃げ、倒れた元安川右岸。そこに建つ市女慰霊碑の前 で毎年六日にある慰霊祭に今年も参加するという。碑に彫ってある 春惠さんの名前をなでる。「おうた気がするんですよねぇ」


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