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半世紀を超え |
戦争のむごさ訴え手記に |
(02/07/30) |
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祈念館の遺影コーナーで提供した家族の写真を確める松本さん。 「22歳で逝った姉の遺影は見合い写真です」 |
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島根県原爆被爆者協議会浜田支部が五年前に刊行した体験集に、 浜田市後野町に住む松本喜代三さん(74)は「キノコ雲の下で」との
手記を寄せた。当時は広島高師(現・広島大)の一年。弟勝さん (12)が、松本さんの母校である広島二中(現・観音高)の一年だっ
た。
投下の瞬間は、動員先の爆心五・三キロの東洋工業(現・マツ ダ)にいた。御幸橋から明治橋を抜け、夜が明けると死体の間を縫
って、「広島二中報国隊」の建物疎開作業現場だった中島新町に入 った。
「勝の組だ(略)中央部の十数名は二列のまま前に傾き、下半身 腹まで瓦礫(がれき)に埋められて立っているではないか(略)白
骨の頭を持ち上げたのが数体あった。頭が落ち背骨だけ立っている ものもある」
広島市中区の平和記念公園で開館する国の原爆死没者追悼平和祈 念館。松本さんは体験記を持参する途中、「この辺りでした」と公
園西側の本川左岸で足を止めた。跡に建つ広島二中慰霊碑には、現 在の西区観音本町にあった校舎で被爆した生徒と入市被爆の二人を
含め、一年生三百二十一人の名前が刻まれる。
松本さんの体験記は、病死の父に代わり、末っ子の勝さんを捜す 中で目撃した「人間の狂気」にも及ぶ。井口村(西区)の寺に収容
されているとの連絡を受け八日、本川に架かる相生橋を渡ろうとし た東詰めで人だかりにぶつかった。若い白人男性を取り囲んでい
た。
「後ろ手に針金で縛られている(略)左の肩は棍棒(こんぼう) で殴られたのか、酷(ひど)く窪(くぼ)んでいた。もう息も無か
った筈(はず)である。それでも煉瓦(れんが)を投げつける女性 がいた」。近くの中国軍管区司令部で被爆したとみられる米兵捕虜
をなぶりものにしていたのだ。
寺にたどり着くと、弟は「兄ちゃんが来てくれるはずだ」との言 葉を残して七日夜に死んでいた。広場に穴を掘った。体験記はつづ
る。「死出の旅立ちには衣装は何一つ無いのである。薪(たきぎ) の上に横たわる身体は、背中が痛そうに思えた」
半世紀を超えての体験記に、松本さんは「家内に話そうとしても 心臓がおかしゆうなりましてね。生き残ったのが何か後ろめたく、
思い出さないようにしていた」と言う。姉二人も失った。名古屋か ら疎開していた米川喜久代さん(36)は二男三女と、結婚間もない岡
本美恵子さん(22)は夫と亡くなった。
松本さんは今、浜田市の児童・生徒に十七歳の夏から脳裏を離れ ない体験を話す。昨年の「九・一一」の米国中枢同時テロとアフガ
ニスタン攻撃に、人間が引き起こす戦争のむごさをあらためて覚 え、平和を築く大切さを語る。
準備作業が続く祈念館の遺影コーナーで、提供していた姉美恵子 さんの写真を目にし、「よかった」と声を上げた。「死者を思い出
す、悔やむ人がいなくなったら霊も消えてしまう」と続けた。画面 に映し出される死没者たちの姿を見つめた。
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