「『ベガ』核実験井戸からの地下水の拡散で、将来、ボルガ川や カスピ海まで放射能で汚染される可能性がある」と話すボリス・ゴ
ルボフさん(モスクワ市) |
地下核爆発でできた井戸の上に設置した噴水装置。規定以上の圧 力になると、ホースを接続し井戸にたまった放射性の液体を取り出
した(アストラハン市外)=セルゲイ・マーティリキンさん提供 (1998年撮影) |
Top page放射能用語BackNext | ||||||||
[12] |
||||||||
巨大な空洞 崩れる地盤 世界最大の湖、カスピ海にそそぐロシアの母なる川、ボルガ。その河口近くに発達した人口約五十万人のアストラハン市から北東へ約五十キロ。十数本の煙突がそびえる天然ガス採掘・精製工場は、湿地帯の向こうに広がっていた。
「『ベガ』と呼ばれる地下核実験跡は、あのアストラハン・ガスフロム工場から東へ六キロほど離れた所から始まる。核爆発で造られた貯蔵用の井戸≠ェ十五個あるけど、その管理を十一年間やってきた。いっぱい放射線を浴びながらね…」
がっしりとした体格のセルゲイ・マーティリキンさん(42)は、工場を見やりながら厳しい口調で言った。彼が働いたのは、一九八七年から九八年まで。井戸の「維持管理オペレーター」として雇われた。が、仕事の中身は放射能の除染作業にすぎなかったという。 「アストラハンのこの辺りの天然ガスは七三年に見つかった。埋蔵量はロシアで一番だが、不純物が多い。不純物を含むそのガスの一時貯蔵庫をつくるために核爆発をやったんだ」と、マーティリキンさんは力を込めた。 旧ソ連では六四年から八九年にかけ、各地でいわゆる「平和目的」の地下核実験が実施された。二つの川を結ぶ運河の建設、より多くの石油や鉱石の採掘、石油や天然ガスの地下貯蔵庫づくりなど目的はさまざま。その回数は、少なくとも百二十九回に及んだ。 その影響について調査する地質学者のボリス・ゴルボフ博士(64)。モスクワ市内のホテルで会った博士は、写真を示しながら計十五回の地下核爆発の影響を詳細に語ってくれたものだ。 ゴルボフさんによると、一つの爆弾の威力は三・二キロトンから十キロトン。しかし、一回目の八・五キロトン(八〇年)を除き、同じ日に三分〜五分置きに複数回爆発させたケースでは、個々の爆弾の威力を合わせたのと同じ結果になってしまった。つまり、八一年は十七キロトンと三十九キロトン、八三年は三十四キロトン、八四年は六・四キロトンと同等の爆弾だったというのだ。 「特に八三年のときは、二十分の間に狭い範囲で六回も爆発させた。そのために、三カ月後でも細かい地震が続いた。爆発はいずれも地下約一キロの岩塩層だが、予想外の崩壊現象があちこちで起きた」と、ゴルボフさん。 計画を立案した核物理学者らは、核爆発による爆風と高熱で岩塩を広範囲に崩壊させて空洞をつくり、やがて温度が下がると空洞の周りの岩塩が硬くなって、隙間(すきま)のない密封状態になると考えた。いわば巨大な「ガラス瓶」の出現である。一つの大きさは約三万立方メートル。十五個完成するはずだった。 「核の専門家は『最も経済的で効率的にやるのが国家への貢献。一秒で造ってみせる』と豪語したものだよ。が、彼らは地質の変化について何も知らなかったばかりか、放射能の影響など意に介さなかった」 ゴルボフさんは、原子力省によって遂行された核実験を厳しく批判した。 「カスピ海に近いこの辺りは、地下水が多い。爆発によって多くのひび割れができて、やがて水がこの人工井戸に流入してきた。内部への圧力もかかって、穴が段々と小さくなっている」 地下約四千メートルから採掘する天然ガスは、十五個の井戸のうち、七個に貯蔵された。残りはガスを入れないままの状態である。予定では天然ガスに含まれる不純物は比重が重いために下部に沈殿し、上部にたまったガスを取り出して工場に送り、製品化するはずだった。 しかし、流入した水に放射性粒子が混ざり、圧力によって上部へと上がってきた。このため、ガスを取り出して利用することができなくなった。 「それだけじゃない。洞穴になった一番下の土台に当たる岩塩層が弱くなって、百八十から二百メートルある工場の煙突がたびたび傾いているんだ」。ゴルボフさんは、地下核爆発に伴う問題点をいくつも列挙した。結局、地上に造ったタンクを一時保管所として利用しているのが実情である。 「一番重要な作業は、井戸の圧力を監視することだった。内部の圧力が規定値に達すると、噴水設備の圧力弁を緩めて、ホースで内部の液体を五トンの容器に取り出した。それを今度は、ガスの入れていない他の井戸に注入するんだ」 マーティリキンさんらは、ときには深さ約一キロまで入れた放射能で汚染されたパイプを取り出し、新しいのと交換した。そのパイプを二メートルほどの長さに切って、他の固体放射性廃棄物と一緒に鉄の容器に捨てた。国家機関の代表団が視察に訪れたときは、蒸気で噴水装置を洗浄し、周りの土壌を入れ替えた。 「体の異常を訴えてもまともに聞いてくれない。防護措置もなければ、放射線測定もなかった。ラクダや馬も近くへやってきて、草を食べていたよ」 ソ連崩壊から三年後の九四年、ガスフロムは民営化された。同じ職場で働いていた従業員の大多数は職を失い、マーティリキンさんら十一人だけが残った。そんな彼らがガンマ線測定器を手に入れたのは九八年五月。会社内に「放射性局」が生まれ、指導部に要求したら受け入れられた。 「早速、測ってみたら噴水設備の辺りは三万二千マイクロレントゲン、自然放射線量(約十マイクロレントゲン)の三千二百倍。ほかの所でも一万七千マイクロレントゲンとか、とにかく異常に高かった」 マーティリキンさんらは、その時点で仕事に就くのをやめ、防護服の支給や健康診断などを要求した。さらに危険な仕事に見合う退職年齢の引き下げや、早期の年金支給なども求めた。 しかし、会社は彼らが要求する「リクイデータ(放射能除染作業者)」としての立場を認めず「他の場所で働くように」と、配置転換だけを求めた。 応じなかったマーティリキンさんらには、仕事が与えられず、給料も出なかった。二〇〇〇年九月には、一方的に雇用関係を断たれた。十一人のうちの七人は、「職場復帰」を求めてアストラハン市の地区裁判所などに提訴。が、門前払いの状態で解決の糸口が見い出せないのが現実である。 工場周辺を巡った帰路、アストラハン市内のマーティリキンさんのアパートに立ち寄った。妻のエレーナさん(40)は、収入のなくなった夫に代わって近くのパン工場で働いている。一人娘のインナさん(18)は地元の大学に通う。 「生活は非常に苦しくなりました。でもその苦労より、骨や筋肉の痛みを訴えたり、熱がよく出る夫の体の方がよっぽど心配です」。エレーナさんは、これまで病気一つしなかった夫の健康異常が、放射線被曝によるものだと固く信じていた。後に会った彼の同僚たちも、骨の痛みや貧血などを口々に訴えた。 「原子力省は『放射性粒子は広がらない』と主張している。しかし、現実には地下水脈を通して早いペースで水平に拡散、地表にも上がってきている。手をこまねいていては大変な事態になる」と警告する。 「平和目的」の名で行った地下核実験の現場を数多く調査したゴ ルボフさん。問題が起きているのは「ベガ」周辺だけでなく、ほとんどの場所で深刻な状況が生まれているという。 「核物理学者らは、だれのチェックも受けずに、自分の思い付きを次々と実験していった。結局、どれ一つ成功しないまま残ったのは健康障害と何百年にもわたる放射能汚染だけだよ」 地質学者として、自らも安全な解決策を模索するゴルボフさん。だが、ゴルボフさんらの警告や提案は、原子力省など当局からなお無視されたままである。 |
|
|
||||||
Top page放射能用語BackNext | ||||||||