「放射性廃液の地下への投棄は人類への犯罪行為」と話すザグ ミョノフ・ユーリーさん |
「核エネルギーの発展は、ありがたいようで地雷をたくさんつくっているのと同じようなもの」と言うアナトーリー・クジャコフさ
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ボルガ川中流のサマーラ市で列車から車に乗り換え、そこから北 西へさらに二百キロ。人口十三万人の小都市ディミトロフグラード 市は、森の中にひっそりとたたずんでいた。 「よく来てくれました。日本人の原子力専門家は、時折ここの原 子炉研究所を訪ねているけど、日本からジャーナリストを迎えるの は初めてですよ」。あらかじめ連絡していた草の根環境グループ 「市民イニシアチブ協力センター」創設者のミハエル・ディスコノ フさん(53)は、事務所入り口で大きな手を差し伸べながら言った。 「五六年に設立された原子炉研究所の主要な目的は、用途の違う 原子炉にふさわしい材料を研究することだ。六一年に最初の実験炉 の運転が始まってから、タイプの違う七基の原子炉が建設された。 その中には六九年に稼働した『BOR―60』という高速増殖実験炉 も含まれている」 ディスコノフさんは七一年から二十六年間、新聞記者としてこの 地方をカバーしてきた。しかし研究所の内側は、九一年のソ連崩壊 まで秘密のベールに包まれていた。 「その体質は今も同じだよ。原子炉で放射能漏れ事故があって も、当局の発表は『基準どおりの噴出で異常はない』のきまり文句 ばかり。九六年二月にも同じようなことが起きたんだ」 そのときの事故について彼が知ったのは、原子炉研究所からでは なく、モスクワからの朝のラジオ放送だった。前日に起きた放射能 流出事故ニュースにあわてた地元のマスコミ関係者が研究所に駆け つけると「心配するような事故ではない」のひとこと。ディスコノ フさんは納得せず、「放射線測定をして確かめるべきだ」とねじ込 んだ。 問題の原子炉近くの空気中の放射線量は、千〜千五百マイクロレ ントゲン。この周辺の自然放射線量(約十マイクロレントゲン)の 百〜百五十倍にも達していた。幸い研究所の敷地外にはほとんど漏 れていなかった。だが、彼が事故原因を知るにはなお三カ月を要し た。 原因は人為ミスによって原子炉の安全装置が作動。緊急炉心停止 の際に、閉め忘れていた予備バルブの一つから約四トンの放射性蒸気 が外部に漏れたという。 国家核監視委員会の関係者に粘り強く接してようやく入手した情 報だった。それでもその委員は「われわれから得た情報だというこ とは表に出さないでほしい」と、ディスコノフさんにクギを刺し た。「監督すべき立場の機関がこれなんだ。明らかに原子力省など から圧力を受けていたに違いない」 ディスコノフさんは、この時の取材を通じて「これでは市民の健 康や環境は守れない。本腰を入れて核施設を監視しなければ」と、 知人の医師らに呼びかけ、九七年に協力センターを設立。「多忙な 新聞記者生活と両立できない」と記者を辞し、センターの活動に専 念した。 その矢先の九七年七月。「MIR」という原子炉材料研究炉の燃 料棒に異常が発生した。放射性ヨウ素131が、高さ百二十メートルの 煙突から研究所の一日の基準値(一億二千二百十万ベクレル)の十 五〜二十倍も放出された。 ディスコノフさんらは、事故発生翌日に独自のルートで情報を 得、三日目に記者会見をセット。地元の記者に資料を配布して状況 を説明した。研究所はまだ発表せず、ディミトロフグラード市の行 政担当者には寝耳に水だった。ヨウ素131の異常放出は、最後は五〜 六倍に下がったものの三週間続いた。 「われわれの発表によって、研究所に近い自動車部品メーカーの 従業員ら一万四千人は、甲状腺に放射性ヨウ素を吸収しな いよう、用意していたヨウ素剤をすぐに摂取した。でも、一般市民 にはそうした措置がまったく取られなかった」。ディスコノフさん は、すぐに事故を公表しない研究所の無責任さと、行政の対応の遅 れを厳しく批判する。 「最初は一・四キロほどの深さに投棄していた。今は一・一キロ ぐらいまで上昇している。もし、この廃液が地上に噴出するような 事態になれば、地域にとって一番重要な産業である自動車部品工場 を直撃するばかりか、都市全体が汚染されてしまう」と、ディスコ ノフさんらは懸念を深める。 センターでは、そのための情報を集めたり、研究所の問題点など を掘り起こしながら「市民イニシアチブ」(A4サイズ、二十四ペ ージ)という機関紙をこれまでに六回発行。各三千部を市民に無料 で配り、啓発活動に取り組んできた。 「ヨーロッパの非政府組織などの資金援助を得ているけど、定期 的な機関紙の発行には資金が足りなくて…」。ディスコノフさん は、苦しい台所事情を打ち明けながらも「最近は研究所を辞めた専 門家らの協力も得られるようになった」と、地域に影響力を持ちは じめたセンターの活動に自信を示す。その彼に、翌日、町を案内し てもらった。 原子炉研究所は、町の中心から約五キロ離れた西地区にあった。 途中の幹線道路沿いには「原子の町」を象徴するタワーが陽光に輝 いていた。森に囲まれた敷地内の様子は、うかがい知ることができ ない。正面入り口からも、原子炉の排気浄化装置につながる煙突が 遠くに見えるだけだった。 約二時間の視察を終え、再びセンターの事務所に戻ると、研究所 の元上級研究員だったザグミョノフ・ユーリーさん(55)が待ち受け ていた。七二年から九九年まで、使用済み核燃料の状態や、それを 収める容器の研究などに当たった。 「あなたが見てきた森の向こうでは、小さな事故は日常茶飯に起 きている。事実は隠されたままでね。それに多くの専門家はあまり 働いていない。無駄に払っている給料で、せめてもう少しましな安 全対策を立てないと…」。今は発明家として生計を立てるユーリーさ んの口から、歯に衣(きぬ)着せぬ厳しい批判が飛び出した。 彼の専門の使用済み核燃料容器についても「米国製と比べ、安全 レベルが低い」と指摘する。が、米国製だと容器一つで二百万ドル (約二億四千万円)。造りたくても先立つものがない。「容器に燃 料棒を出し入れする際の技術も劣っている。だから列車の特殊車両 や容器が汚染され、警備員らが被曝している」とも。 「私の妻は研究所での被曝がもとで、九九年にがんで死亡した 」。ほっそりとした体つきのクジャコフさんは、とつとつとした口 調で妻が遭遇した事故の様子について語った。 「事故が起きたのは七〇年。妻の同僚の操作ミスで実験装置から 放射能が漏れ、原子炉のそばにいた彼女ら三人が二百ミリシーベルト を全身に浴びた。現在の一般人の年間線量限度の二百倍、原子力関 係従事者の十倍に当たる」 マガリータさんは、その後放射線を扱わない部署に配置転換され た。しかし九年後、四十四歳で乳がんを発病。やがて全身にがんが 転移して、六十四歳で亡くなった。 「われわれの時代は、生涯の線量限度を三百五十ミリシーベルトに 設定するなど、少量の被曝の影響に無頓着(むとんちゃく)だった。私は 今、七一年に生まれた長女の健康や、この地域で育った人たちの健 康がとても気に掛かっている。事故などで放射性物質が外部へ漏れ ても、人びとの被曝線量すら分かっていないんだから…」 今はディスコノフさんらの活動に共鳴するクジャコフさんは、自 省を込め、しみじみと自らの研究生活を振り返った。 |
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