「ヒロシマの記録-遺影は語る」から
'99.8.3

54年ぶり訪ねる臨終の地 

 ふるさと広島 
(7)
平和公園に眠る街 中島本町

 「行こうとして行ってないんですわ」。日向正司さん(64)はこの夏、広島を訪ねるかどうか思案していた。

 古里である広島市の平和記念公園と、父が息絶えた廿日市市。「定年になる来年には墓をきちんとしたいと思っているんです。そのために父の遺骨がどうなったかを知りたいんです」。大和三山に抱かれる奈良県橿原市。自宅の窓からは、畝傍(うねび)山の濃い緑が陽光に輝く。

PHOT
「熱かったやろな、痛かったやろなぁ・・・」。父の死亡診断書や、母らの死亡報告書を前に話す日向(旧姓中山)さん(奈良市橿原市の自宅)
 ■一通の死亡診断書

 十歳の夏、家族四人を原爆に奪われた。母と弟、妹の遺骨とともに父の兄弟がいた奈良へ。中学に上がるころ、子どものいなかった「日向」の養子になった。それまでの名前は「中山」と言った。

 「これしか手掛かりはないんです」と、広島から携え保存する一通の「死亡診断書」を広げた。父中山熊治郎さん(38)の名前が記される診断書にはこうあった。

 病名 全身火傷/発病ノ年月日 昭和二十年八月六日/死亡年月日 八月拾四日午後六時/死亡ノ場所 佐伯郡廿日市町四百八拾六番地ノ五廿日市臨時救護所/右證明診断検案候也 廿年八月拾五日 医師田邊薫吉(原文のまま)。

 熊治郎さんは、妻八重子さん(30)や二男稔さん(6つ)、長女美恵子さん(1つ)と本川橋東側の自宅で被爆した後、自力で三人の遺骨を納め、己斐(西区)の取引先に預けていたという。もともとは相生橋に近い慈仙寺鼻に住み、盆栽の卸しをしていた。

 ■母親らの最期知る

 「私が学童疎開していた折に『ほうねんや呉服』の綿貫さんの隣に移ったらしいんですわ。あれを御霊(みたま)の引き合わせというんやろなぁ・・・。その綿貫さんから、お袋らの最期の様子を知ったんです」

 三十九歳の夏。出張の途中に初めて立ち寄った平和記念公園で出くわした。問われて「中山です」と名乗ると、母は弟と妹を抱き締めて死んでいたと聞く。綿貫豊助さん(一九八七年死去)は、追悼法要を営む旧住民らでつくる「中島平和観音会」の世話人だった。

 ■「心の傷消えない」

 「広島へ行かなかったのは、あれ以降も、行こうとしないのは・・・心の傷が消えてないんですな。原爆の後は周囲に気を遣い、寝る時だけが自分の時間でした。皆それぞれ苦労したんやろうなぁ・・・」。中島国民学校から県北の双三郡三良坂町の光善寺に疎開していた。爆心地となった中島本町と材木町に住まいがある児童約四十人がいた。

 電報配達をしながら二十二歳で高校を卒業。三十二歳で大学を出た。大手レコード会社を役職定年で退き、第二の職場の定年が近い。「頑張ってもできなかったのが子ども」と冗談めかす。妻恵美子さん(67)と、「中山」の永代供養を考えているところに、「遺影は語る」への取材協力を求める手紙が届いたという。

 「記憶の底に押し込めていた」父の死亡診断書を開けてじっくり見ると、「廿日市臨時救護所」で死んでいたのに気づいた。「臨時救護所」は現在の廿日市小学校である。記者がそのことを伝えて二週間後、日向さんから「一度行ってみます」と電話があった。父の臨終の地を五十四年ぶりに訪ね、母と弟、妹が死んだ中島の「平和乃観音」像前で六日営まれる追悼法要にも参列する。「幼ななじみにも会いたいし」。弾みをつけるように言った。


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