「ヒロシマの記録-遺影は語る」から
'99.8.2

初めて一緒に立つ生家跡 

 姉と妹 
(6)
平和公園に眠る街 中島本町

PHOT
レストハウスを背に話す妹の高松翠さん(左)と姉の磯部悦子さん。「建物の西隣に道があり、一軒挟んだところが実家でした」
 ■異なる「街の記憶」

 姉妹の生家は「中島本町46番地」にあった。広島市の被爆建造物レストハウスがある並び。日本髪のつけ髪や化粧品を扱い、屋号は「廿日市屋」といった。

 旧姓木原。東区に住む姉の磯部悦子さん(72)は「スズラン灯がともり夜は十時、十一時まで店を開けていました」と、中島の盛時を知る。南区に住む妹の高松翠さん(66)になると「胡(えびす)講を別にすれば寂れていました」。誕生日で七つ違いが、街を取り巻いた様相の記憶を分ける。

 スズラン灯は昭和天皇の「御大典」を記念して一九三一年、鉄製アーチ型に改装されひときわ輝いていた。ところが日米開戦の四一年に軍へ金属供出され、消えてしまった。電飾に続いて中島では、住まいが建物疎開により立ち退きに遭う。

 国が広島市に実施を命じたのは四四年十一月。対象は百三十三カ所に及んだ。役所などの「重要施設」「堅ろう建物」の防衛や、消防道路の確保が狙いだった。「廿日市屋」があった元安橋西の区画も含まれた。

 長女の悦子さんが言う。「燃料会館を助けるためでした」。今、レストハウスとして観光客の休憩所となる鉄筋コンクリート三階建ては、広島県燃料配給統制組合などの国策会社が入っていた。一家は、住み慣れた中島本通りに近い慈仙寺鼻に移った。

 中島国民学校六年生になった二女の翠さんは四月、そこから広島県双三郡三良坂町の光善寺に学童疎開する。十八歳の悦子さんは「八月六日」朝、舟入川口町(中区)にあった機械工場に出た。自宅には、父木原真一さん(48)と母政子さん(42)、弟の三男寛さん(4つ)、四男稔さん(1つ)の四人がいた。

 ■遺体と一夜過ごす

 「家族の原爆死を詳しく聞いたのは、一緒に別府温泉へ旅行した昨年なんです」

 妹は、両親の遺骨を納めた姉とすら「あの日」を話題にするのを避けてきた。姉は「言いたくなかった」と、慈仙寺鼻で一夜を過ごした日を胸にしまい込んでいた。姉妹が原爆をありのままを語り合うには、半世紀を超す歳月がいった。

 悦子さんは、勤務先で被爆した後、水主町(中区加古町)にあった爆心九百メートルの県庁までたどり着くと元安川に下り、川岸沿いにさかのぼった。慈仙寺鼻に架かる相生橋の付け根から上がったものの、それ以上は入れず、倒れていた人間の間にへたり込んだ。

 「恐ろしさより、放心状態。周りが燃えているわ、とじっと見ていたのですから」。西側の本川国民学校からは「おじいちゃん。助けて」と少女の悲鳴が聞こえ、四方からもうめき声がした。何時だったのか。だれだったのか。乾パンを渡されて食べた。うとうとするうちに日は明けていた。

 ■平和運動とは一線

 翠さんは、応召から戻った兄が九月末ごろ疎開先に迎えに来た。「当時のことは思い出せと言われてもはっきりしません」。原爆を乗り越えるため記憶を封印した。勤めた小学校の教壇でも体験は口にしなかった。

 「大切なのは身近な人たちの苦しみ、悲しみを理解し、命を認め合うことでは」。原爆を体験した者こそ立ち上がるべきだとする声高な「平和教育」や「平和運動」とは一線を画した。

 「懐かしさがないとは言いませんが、ここで時間を過ごしたいとは思いません」。妹の言葉に姉もうなずいた。二人そろって生家跡を、平和記念公園を訪れたのは初めてであった。


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