「ヒロシマの記録-遺影は語る」から
'99.8.4

祈りを礎に平和への誓い 

 原点に立ち 
(8)
平和公園に眠る街 中島本町

 「観光の公園というか、きれいになり過ぎて被爆のよすががないですねぇ」

 広島市中区の浄土真宗浄宝寺の住職、諏訪了我さん(66)は、緑の芝生と石畳がまぶしい平和記念公園に、もの足りなさを覚える。被爆五十周年を超えてからは、「行政に原爆ドームと原爆資料館があれば十分との向きを感じる」。

PHOT
「人影はなく、墓石が無残に倒れていました」。学童疎開先から戻って見た浄宝寺跡の様子を語る諏訪さん。後ろは原爆慰霊碑
 ■南の空を見て泣く

 寺はかつて「中島本町69番地」、現在の原爆慰霊碑が立つ西側にあった。爆心三百メートル。疎開先から通っていた住職の父令海さん(57)と母クニさん(56)、学徒動員に出ていた安芸高女四年の姉玲子さん(16)は「八月六日」に亡くなった。両親の遺骨はいまだ行方が知れない。

 中島国民学校六年だった諏訪さんは、広島県北の双三郡三良坂町の光善寺に学童疎開していた。約四十人がいた。広島の惨状が伝わるにつれて一人、二人・・・寺の階段に座り込んだ。気がつくと、皆が南の空に向かって泣いていたという。

 墓石も倒れた寺跡に戻ったのは、一九四五年九月十六日のこと。その翌日、広島県内は死者・行方不明者二千十二人を出した枕崎台風に見舞われる。

 かつてない混乱の中、十二歳の少年の双肩に、中島で約三百四十年続いていた寺の再建が掛かった。本尊などは父が幸い疎開させていた。めどが立たなかったのは、爆心地に散らばる門徒の消息。「墓の数から言うと、百五十のうち三十くらいが無縁仏になっていました」。原爆は生者にとどまらず、泉下に眠っていた者をも引き裂いた。

 やがて門徒総代の別棟に仮住まいして、島根県から代務の住職を迎える。現在の大手町で、寺の落成法要を執り行ったのは原爆から八年後の五三年。ゆかりの地では公園建設のつち音が高まっていた。

 ■「偲ぶこと」を意識

 植えた樹木より雑草が目立つその公園に五六年、中島本町「平和乃観音」像が建つ。「生き残れる有志相集って・・・その霊を慰む」といわれを刻む。第一回から参列する諏訪さんは、三年間のブラジル開教師時代を除いて、追悼法要のつとめを続ける。

 「亡くなった人たちの思いを受け止める、偲(しの)ぶことがないと、平和への願い訴えは弱く、共感は得られないのではないでしょうか」。広島県をはじめ各学校や、企業で「八月六日」に営む慰霊祭が、遺族への案内を取りやめるなど、しりすぼみになっているのを憂う。

 自ら「偲ぶこと」の行動に努める。公園内でレストハウスに使われる元「大正屋呉服店」など被爆建造物の保存運動にかかわり、市民に署名を呼び掛ける。

 ■「足元が土なら・・・」

 「被爆のよすが、痕跡があってこそ、より命の痛みを感じることができるんです。例えば、この足元が土であれば原爆の熱さをかすかでも・・・」。石畳にきれいに覆われた寺跡に立ち、冒頭の感想が口をついた。

 二日後に控える広島市の平和記念式典。原爆慰霊碑が建立された五二年から、碑の前で営まれ、「原爆死没者名簿」を納めるようになる。これまで二十万七千四十五人が記載され、今年も四千人を超す原爆体験者が碑につらなる。

 諏訪さんは「広島がヒロシマたるのは被爆の原点だから」と言う。老いも子どもも焼き尽くした原爆、戦争の惨禍を引き起こさないよう世界を超えて祈り、誓いを新たにする。それが「八月六日」の原点である、と中島に生まれ育った諏訪さんは思う。

=おわり=

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