「ヒロシマの記録-遺影は語る」から
'99.7.29

安らぎの川面 埋めた遺体 

 水の都 
(2)
平和公園に眠る街 中島本町

 デルタに浮かぶ広島市の平和記念公園。公園全体の現在の地名「中島町」は、江戸期にさかのぼる。藩誌の「知新集」は、今でいう地区のマークも「水の縁をもて此(この)しるしを付(つけ)る」と「水の都」をかたどったの渦形だったことを伝える。

PHOT
慈仙寺鼻(右後方)を背に、それぞれの「8月6日」を語り合う正田さん、福島さん、阿戸さん(左から)
 ■魚や川エビの宝庫

 「幼いころは荷を積んだ川船が入り、ガンモン(川エビ)やチヌをよく釣りましたね」「そうそう、カーバイドを投げていっぺんに捕る悪さをしたりして」。西区に住む阿戸憲爾さん(63)に、佐伯区の福島和男さん(67)が相づちを打つ。二人は、太田川が元安川と本川に分かれる旧中島本町の北端「慈仙寺鼻」で生まれ育った。「中島本町84番地」が阿戸医院、北隣の「85番地」が福亀旅館。

 原爆は慈仙寺鼻に架かるT字型の相生橋を目標に投下された。二人とも「あの日」を境に子ども時分の思い出が詰まる古里は、肉親終えんの地となった。

 中島国民学校四年だった阿戸さんは、広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)の疎開先から通っていた。学徒動員が続いていた広島市女(現・舟入高)四年の姉周子さん(16)と崇徳中二年の兄の晃さん(13)は、中島の自宅にとどまっていた。

 「廿日市に向かう電車が空襲警報で止まり、宮内村に着いたのは夜明け近く。寝込んだために私は助かり・・・」。入れ替わるように、市女一年の姉ハルミさん(12)が、見送りの母を振り返りながら疎開先を出た。中島地区の建物疎開作業に学徒動員されていた。

 ■地表を染めた火炎

 原爆投下の前夜から、広島には珍しく空襲警報のサイレンが不気味に鳴り続いた。市の記録によると、午後九時二十分▽同二十七分▽明けて午前零時二十五分・・・。午前七時三十一分に直前の警戒警報は解除となる。寝つかれぬ夜を送った市民は、朝食の支度にかかり、動員先へ急いだ。そこに一九四五年八月六日午前八時十五分が襲った。

 山陽中二年の福島さんは、西区の容器工場で被爆し、「黒い雨」がやんだ後、その足で爆心地へ向かった。父松吉(48)さんと母静子さん(38)、祖父母、叔母の五人がいた。

 山手川、福島川、天満川、太田川(現・本川)、元安川の下流をう回した。中島に近づくにつれ、防火用水には「水ぶくれし、皮がむけた赤い遺体が散乱していた」。焦りとあきらめをない交ぜに夕刻、現在の公園西側近くまでたどり着いた。火炎はまだ地表を染めていた。

 ようやく家族の遺体を捜しに慈仙寺鼻に入ると、川面を埋めた夥(おびただ)しい遺体がスイカのように膨れ上がり、魚がくらいついていた。その様を、二人は「地獄としか言いようがない」とこもごも表した。

 二人の自宅で亡くなったのは家族にとどまらない。阿戸医院では看護婦、福亀旅館は女性従業員二人と男性客が不明になった。

 ■財布が唯一の形見

 そのうちの一人、正田キミさん(40)の一人娘は西区で健在。七十四歳になる登喜子さんは「母は旅館で死んだと思うしかないんです。ほうきで掃いたように跡には何もなかったのですから」と話す。一緒に被爆した祖母と、九月九日に被爆死した夫の看護に追われ、登喜子さんが慈仙寺鼻に足を踏み入れたのは秋になってから。母が刺しゅうしたろざしの財布が、唯一の形見となった。

 三人は慈仙寺鼻を訪ねると、夏の光を浴びて原爆ドームとビルの影を描く穏やかな川面を、しばしまぶしそうに見つめた。


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