「ヒロシマの記録-遺影は語る」から
'99.7.30

家族を奪った母国の原爆 

 太平洋をはさみ 
(3)
平和公園に眠る街 中島本町

 定政文夫さん(72)は今でも、米国大統領リンカーンが「自由と平等」を唱えた演説をそらんじる。「学校でたたきこまれましたから」。シアトル生まれ。十一歳になる一九三八年、米国市民のきょうだいは母に連れられ、父が先に戻っていた広島へ移る。両親の郷里であった。

 中島本通りに面する「中島本町40番地の1」に住み、両親は食料品店「フジヤ」を営む。きょうだいは学校に通うため日本の戸籍をつくった。日本軍は中国大陸で戦火を広げ、太平洋の覇権をめぐり米国との関係は険しくなっていく。英語を使うのは家の中にとどめながら、日米開戦まで届いた米国の新聞に、自家用車があった豊かで自由な薫りをひそかにかぎ取った。

 「顧みれば頭から押さえ付ける日本の教育に、いつの間にか同化し、軍人にあこがれていました」。県立広島一中(現・国泰寺高)を経て神戸市垂水区に移っていた海軍経理学校に進む。その四カ月後、原爆は落とされる。両親と姉、弟が中島にいた。

PHOT
「自宅跡のかわらを掘り返したのは、この辺りです」と話す定政文夫さん。公園内を貫く通りは旧山陽道時代から続く。後ろは本川橋東詰め
 ■15歳の弟は助かる

 「新型爆弾の投下」。新聞で広島の断片的な情報を知ったが、学校からの説明は一切なかった。十八歳の定政さんは、敗戦で帰途に就く。四五年八月二十日すぎ。列車が太田川下流のデルタを越えて家並みが残っていた己斐駅で下車した。間もなく父の知人と出会った。

 伝えられたのは、父米男さん(45)と母千代子さん(39)、広島女学院専門学校三年の姉恵美子さん(20)の死去。せめてもの知らせは、弟が曾祖母(そうそぼ)の家にいることだった。広島一中三年だった十五歳の弟は、爆心一・五キロの鶴見橋付近の建物疎開作業中に熱傷を負った体で出迎えた。

 ■米国で第二の人生

 弟の定政和美さん(69)は現在、カリフォルニア州に住む。「日本に戻っても、ここには来ようとしません。私も思い出したくないのであえて誘いません」。呉市で暮らす兄の文夫さんは、木々が茂る自宅跡を見回し、淡々と話した。

 兄弟は両親の保険を基に建てたバラックで暮らし、兄は占領軍相手の通訳として国鉄に入った。原爆から三年後、二人は生き抜くため互いの祖国に分かれた。

 和美さんは、国際電話の先で考え込むような息遣いをのぞかせ、元ビジネスマンらしい折り目正しさで答えた。「米国に戻ったのは両親が『生きるんだ』と叫んでいる気がしたからです。私の第一の人生は原爆で終わったからです」

 ■「戦争のない世界を」

 あの朝、体調を崩していた母に代わり姉がつくった弁当を携え、裏がゴムの地下足袋で家を出た。昼すぎ、簡単な治療を受けた比治山(南区)からとって返した。元安川を小舟で渡り、誓願寺境内(原爆資料館の南)を抜け、本川橋東詰めから中島本通りに。佐野紙問屋の前にいた女性に声を掛けると「あなたこそ先に逃げなさい」と言われ、自宅まで来たが、防火水槽に男一人だけが頭を突っ込んでいた。相生橋の下に人の気配はあったが返事はなかった・・・。

 その日の爆心地を克明に知る数少ない被爆者の一人は、気の重い電話に「私が経験したことは、だれにも経験してほしくない」と受話器を置いた。母国の原爆で家族が奪われた兄はまた「ああいう目に遭うことがないよう、戦争のない世界を願う」と述べた。

 原爆を生み出し、使われた悲劇は戦争そのものにあることを、日米に生きる二人は身を持って体験したからだ。


MenuBackNext