「ヒロシマの記録-遺影は語る」から
'99.7.28

爆死の肉親10人 孫と弔う 

 めぐり来る夏 
(1)

    悲痛な体験 心に秘め
平和公園に眠る街 中島本町

 「公園内のこの道は、原爆前は相生橋から真っすぐ延びていて、この辺りです」。安佐南区に住む武田京子さん(64)は、本川左岸に面した「中島本町98番地」の生家跡に立つと、ため息をかすかについた。対岸に見える母校、本川小の位置だけが変わらない。

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「家の裏から出ればすぐ泳げたんです」と話す武田京子さん。後ろは相生橋。左端の建物は母校、本川小
 ■一瞬で独りぼっち

 「覚えているのは、ハエを払いながら地面を掘り返したこと。それで出てきたのは食器類なんよ」。笑顔交じりに話しながら、時折、自身を突き放すような口調で語った。「原爆の後は気がふれとったんじゃない?

 年端のいかない子どもが両親きょうだい、だれ一人おらんようになったんでは」。十歳だった。

 本川国民学校五年の少女は、家族と離れて集団疎開先の広島県双三郡十日市町(現・三次市)にいた。記録によると、三年生以上の児童二百五人(うち女子七十九人)は一九四五年四月十五日、広島を出て、町内四カ寺に分かれリュックの荷をほどいた。広島市全体で八千三百六十五人が学童集団疎開にあった。

 ■祖父が育ての親に

 「汽車の中では修学旅行気分が、翌日はみんなものも言わなくなりました」。寂しさを紛らわす楽しいはずの食事は、米が少し交じっただけの麦めしに、いり大豆。ひもじさのあまり、持参した胃腸薬をかじっていたと笑う。

 心待ちにしていた面会は、父義顕さん(37)と母藤枝さん(33)、母の妹の高木久胡さん(17)が、食べ切れないほどのおはぎを持ってきた。「ほかの人たちはどこも一人だけだったのに、三人も来たので先生にしかられて・・・」

 公園近くの喫茶店で続いていた話は突然、せきを切ったような涙で止まった。「その先生が『ご免ね。あれが最後じゃったんじゃね』と・・・」「政府の命令とはいえ疎開に行くより、家族一緒に死んだほうがよかった・・・。今もそう思うよ」

 八人家族が、武田さん一人になった。原爆投下後、疎開先の寺にいち早く迎えに来た母方の祖父も、河原町(中区)の自宅などで妻と子の三人を失い一人に。その祖父が育ての親となり、武田さんは二十一歳で結婚。洋裁の仕事を続けながら八〇年、今度は祖父をみとった。

 「原爆で身内が十人も亡くなったのに、法律はどこか矛盾しとるね」。国が四年前の被爆者援護法施行で、被爆者健康手帳を持つ遺族だけに葬祭料を支給したことを言うのだ。武田さんは手帳を持っていない。人影が消えた爆心地で遺骨を捜し、入市被爆したことを証明する人がいない。

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武田さん(前列右端)が小学生時代に中島本町の写真館で撮った1枚。前列左から二女邦子さん(八つ)、三女康子さん(六つ)、後列は母藤枝さん(33)、長男博己さん(三つ)、母の妹高木久胡さん(17)。いずれも「8月6日」死去
 ■二つの灯ろう流す

 「原爆のむごさは、実際に遭うのと、見たり想像するのでは違う」。求めに応じてあえて口を開いた武田さんは、孫たちにも「あの夏」を話題にする気はないという。「だって、元気なおばあちゃんが、孫の前で涙は見せられないじゃない」。潤んだ目元に笑顔が広がった。

 その孫たちを連れて八月六日は、中島を流れる元安川に向かう。「武田」と祖父の家族「高木」。二つの灯ろうを流し、川面にそろって手を合わせる。初孫は小学三年生になった。


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