▽被爆医師・肥田さん 病院跡地で「原爆は終わっちゃいない」
「あの日」の惨状を体験した医師の生き残りとして語り継ぎたい―。広島第一陸軍病院の軍医だった日本被団協中央相談所理事長の肥田舜太郎さん(89)=さいたま市=は六日朝、広島市中区基町の病院跡にある慰霊碑を訪れた。今年は自らかかわった二つの原爆症認定集団訴訟で相次いで勝訴。早くから指摘してきた内部被曝(ひばく)の危険性も認められた。原点の地に立ち、医師として核兵器の危険性を訴え続けることを誓った。
慰霊碑には軍医や看護師、衛生兵など約七百人の名前が刻まれている。「部下の名前を見ると胸が締め付けられる」。中尉だった肥田さんは往診先の戸坂村(東区)にいて直接被爆を免れた。
病院に戻ろうとしたが火炎に阻まれて引き返した。爆心地から約五キロ離れた戸坂村で、押し寄せる被爆者の治療に没頭する日々。救援で入市被爆した兵士は体の紫斑を見せ、「軍医殿、わしはピカに遭っとらんです」と訴えた。以来、内部被曝をはじめ、人体をむしばむ放射線との格闘が生涯のテーマになった。
戦後、東京で小さな診療所を開いた。「ただの怠け病」と大病院にあしらわれた被爆者たちが肥田さんを頼った。やがて被爆者が団結した日本被団協に、医師としてかかわるようになった。
診察した被爆者は六千人に上る。「放射線は今も体を切り刻む。原爆は終わっちゃいない」。集団訴訟では大阪地裁などで内部被曝の危険性の証人となった。五月の大阪地裁と今月四日の広島地裁で相次いだ原告全面勝訴の「立役者」は、核兵器の底なしの危険性にやっと目が向き始めたことに手応えを感じる。
支えてきた日本被団協も間もなく結成五十年を迎える。「核兵器を憎む思いでつながった運動の原点は死者を悼む気持ちだろう」。原爆投下直後に被爆者治療を経験した数少ない現役医師として、なお「あの日」と向き合い続ける。(石川昌義)
【写真説明】「命が続く限り、ここでまた会いましょう」。陸軍病院跡にある慰霊碑前で遺族に語り掛ける肥田さん(左)(撮影・高橋洋史)
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