▽実態なお不明 苦悩今も
広島と長崎、二つの地で原爆被害に遭遇した「二重被爆者」と呼ばれる人たちがいる。長崎市は今年3月時点で21人の生存を確認したが、全国に具体的なデータはなく、詳細な実態は戦後61年の今も明らかになっていない。核の惨劇を二度も体験した人々は、どんな苦しみを抱え生きてきたのか―。
三菱重工業長崎造船所の技師だった山口彊さん(90)=長崎市。一九四五年八月六日は広島に出張中だった。爆心地から二キロの路上、突然吹き飛ばされた。体の左側がどろどろに溶けたようになった。
なんとか避難列車に乗り、高熱でうなされながら約三百キロ離れた長崎に戻った。九日、包帯姿で会社に出勤。上司に広島の惨状を報告した。そのとき、再び閃光(せんこう)が走った。爆心地から三キロ。きのこ雲に広島から長崎まで追い掛けられてきたような気がした。
▽国連で訴える
避難列車の中でにぎり飯を分けてくれた国鉄職員、長崎で治療してくれた医師。さまざまな人に助けられ、命をつないだ。
「原爆の非人道性を世界に伝える証人として、生かされているんだ」との思いから、この夏、生まれて初めてパスポートを取り渡米。今月三日には米ニューヨークの国連本部で「三度目の被爆があってはいけない」と訴えた。あの日の広島で、川に浮かぶ大勢の人の痛ましい姿が頭から離れず、歌に詠んだ。
〈大広島 炎(も)え轟きし朝明けて 川流れ来る人間筏(いかだ)〉
昨年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)が収蔵する被爆者の体験記を調査したところ、二重被爆者とみられる約百六十人分の記述が見つかった。
その一部、旧厚生省が一九九五年度に収集した体験記には、九十九人の二重被爆体験が書かれている。復員中や帰省中に両被爆地に入った人が多く、両方の地で救護活動した看護師もいた。
▽第三の被曝も
結婚したばかりの夫を広島原爆で亡くした女性は翌日、実家のある長崎に戻り、父と姉も失った。体験記に「悲しいと言うより、ぼうぜんとして何が何だかわからなかった。核が憎くてたまりません」とつづった。
広島、長崎だけではない「第三の被曝(ひばく)」を経験した人もいる。
元船員の故藤井節弥さん。母、姉と長崎で被爆。その後高知県に移り、マグロ漁船に乗り組んで稼ぎを得ていた。
後年、藤井さんの調査に当たった元高校教諭の山下正寿さんによると、藤井さんは米国が水爆実験をしたビキニ環礁近くの海域で操業中、二度目の核被害に遭った可能性が高いという。
死の灰を浴びた不安を訴え、気象図に「ビキニハ大イニ関係アル」と書き込んでいた。入院中の六〇年、二十七歳で海に身を投げ、命を絶った。
姉の山下清子さん(81)=神奈川県横須賀市=は「優しい弟でした。二度の被曝で体調がすぐれず、将来を案じたのでしょう。あんな思いは、二度と、誰にもしてもらいたくない」と首を振った。
【写真説明】(上)被爆体験を語る山口彊さん (下)藤井節弥さんの遺影を手にする姉の山下清子さん
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