▽「亡き友に聞かせたい」
「あの日」の惨劇から六十一年。今なお続く被爆者の苦しみに、司法は救済の扉を開いた。原爆症認定をめぐり、原告四十一人全員を勝訴とした四日の広島地裁判決。「裁判所に私たちの声が届いた」―。原告たちは涙で喜びを分かち合った。
「(国の)却下処分はいずれもこれを取り消す」。午後三時すぎ。裁判長が主文を読み上げた。原告らは沈黙したまま、喜びをかみしめた。閉廷直後、弁護士が「勝ったぞ」と声を上げるとようやく緊張が解け、笑顔が広がった。
原爆投下十三日後、救護活動で入市被爆した大江賀美子さん(77)は、乳がんや胃がん、卵巣がんなどで手術を繰り返してきた。国の基準では、放射線被曝(ひばく)線量は皆無とされ、二度も認定申請を却下された。「一緒に広島に入り、がんなどで亡くなった同級生に判決を聞かせてあげたい」。うつむいて声を詰まらせた。
同じ入市被爆の舛岡善光さん(80)は「入市も直爆も放射線を浴びているのに変わりはない。あの日、一緒に作業した砲兵隊の仲間たちへ、供養とともに報告したい」。
爆心から約二・九キロで被爆した原告副団長の丸山美佐子さん(63)。放射線の影響が少ないとされる遠距離被爆者だ。「幼い時から、薬を手放したことがない。病気になるたび、原爆の影響と考えてきた」と振り返った。
判決は、放射線と因果関係がないとして却下されてきたウイルス性の疾病や骨折なども原爆症と認めた。爆心地から〇・五キロの広島市中区袋町で大量の放射線を浴びながら、C型肝炎の認定申請を却下された三谷キミエさん(76)は「緊張で朝から何も食べていない。本当にうれしい」と喜びを語った。
提訴から三年余。原告のうち十人がこの日を待たずに逝った。故西博さんの妻妙子さん(65)は遺影を手に「寝たきりだった晩年の夫を抱きかかえるととても軽かったが、遺影の夫はもっと軽い。あと少し長生きしてくれたら」と目を潤ませた。
原告団長の重住澄夫さん(78)は先祖供養の数珠を首にかけ、判決に臨んだ。「原爆で死んだ父や母、そして先祖が後押ししてくれた。全員勝訴が何よりうれしいよ」。車いすの上で顔がほころぶ。「国はこの結果をしっかり受け止めてほしい」。控訴断念を求める強い決意も示した。
【写真説明】「全面勝訴」の判決を受け、報告集会で手をたたいて喜ぶ原告たち(広島市中区の広島弁護士会館)
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