府中市に住む被爆者の内田千寿子(82)の自宅。「遅くなったから、晩ご飯を食べていきなさいよ」。昼食時と同じように声を掛けられ、今度は甘えることにした。一九九四年に夫を肺がんで亡くしてから一人暮らしだ。
その夫が他界する二年前の九二年、ホームステイで受け入れたウクライナのバーリャ。当時七歳だった彼女の父親から、助けを求める手紙が届いたのは、翌九三年だった。
内田は戸惑った。夫が末期がんで、医師から余命数カ月と宣告されていた。病気の少女の窮状を訴えられても、対応できる心の余裕はなかった。「どうしたらいいのか」。もんもんとする日々が続いた。
▽派遣医が診察
そんな時だった。「なぜ、自分だけで問題を抱えているんだ」。手紙の内容を知った市民団体「ジュノーの会」(府中市)の代表の甲斐等は、内田をいさめた。
バーリャは高熱を伴う膠原(こうげん)病だった。被災地では国際的に認知された甲状腺がん以外にも、医療事情が悪く、病気で苦しむ子どもたちも多かった。甲斐はすぐに同会と協力する広島市の医師と協議、検診のため派遣された医師が薬を持参し、少女を診断した。病気がよくなったと聞いたのは、それからしばらく後のことだ。
それでも、「少女の命はジュノーの会が救った」という言葉を聞くと、少し引っかかるものを感じていた。
事故から十三年目の九九年四月、内田は会のメンバーたちと一緒に、初めてウクライナを訪れた。放射線被曝(ひばく)の後遺症と闘ってきた自らの体験が被災者の役に立てば、という思いだった。
▽しこり消える
その旅の途中、爆発事故を起こしたチェルノブイリ原発近くにある、バーリャが暮らす村を訪ねた。家の周りを木々が囲み、ライラックの花が咲いていた。七歳だったバーリャは、美しい少女に成長していた。
母親は、バーリャが毎日、日本での写真を収めたアルバムを見ていると話した。「私を喜ばそうとしているのかも」。しかし、バーリャが見せてくれた二冊のアルバムには、手あかがしっかりと刻み込まれていた。
うれしくて涙が出た。
被爆者としてチェルノブイリの被災地救援の活動に取り組んできてよかったと実感した。そして、あの時感じた心のしこりが消えていくような気がした。
いま、バーリャは成人し、地元で助産師になっているという。くしくも看護師だった内田と同じように「命の現場」で働いている。
「バーリャの命は、医師やみんなの協力で救われた。支援組織として活動する意義をあらためて感じている」。内田は今後も、会の一員として、被災地へ定期的に医師を派遣したり、現地の市民団体を支えたりする活動にかかわりたいと思う。
市内にあるジュノーの会の事務所を訪問した。メンバーたちと次号の会報を作成していた代表の甲斐は「内田さんや被爆者の思いに学ぶことは本当に多い」と力強く言う。ただ、まだまだ被災地の医療体制は十分ではなく、「広島の医師と協力して、現地の人のための検診システムを確立したい」と展望を語る。
こぢんまりとした台所での夕食。食卓に向かい合った内田の背後には、高さ五十センチほどの木製の食器入れがあった。五十四年前、亡き夫が買ってきた思い出の品だ。その古びた調度品に、内田の変わらぬ強い意志が透けて見えるようだった。<文中敬称略>(滝川裕樹、写真も)
【写真説明】甲斐代表(右端)を中心に打ち合わせをするジュノーの会のメンバー。前列中央が内田さん
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