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つなぐ チェルノブイリとヒロシマ
支える若者たち 「患者の力に」気負いなく ('06/6/2)

 臨床検査技師の三本(みもと)亜希(27)=広島市南区=は、待ち合わせの喫茶店へ先に着いていた。指先には、鮮やかなネイルアートが光っていた。

 「あした友達の結婚式だから」。そう言って笑う姿からは、チェルノブイリ原発事故などの医療支援で、ここ四年間に七回も被災地を訪れたたくましさは想像できなかった。

 宇部市出身。この三月までは、広島市南区の甲状腺専門医、武市宣雄(62)が開業する診療所で働いていた。原発事故被災地のベラルーシやウクライナや、旧ソ連時代に核実験が繰り返されたカザフスタンのセミパラチンスクで検診を続ける武市に付き添い、渡航を重ねた。

 ▽ホテルで検査

 三本は、がんの疑いのある患者から採取した細胞が良性か悪性かを判定する重責を担う。しかも、現地滞在は、いつも一週間程度の強行軍だ。

 がんの不安を抱える患者に少しでも早く検査結果を知らせたい。宿舎のホテルに、患者の細胞の入った顕微鏡標本のプレパラートを持ち帰り、検査したこともあった。「体力的にはきついですよ。ダイエットにはいいですけどね」。笑いながら言ってのける。

 三本が初めて被災地を訪れたのは二〇〇二年十二月、ベラルーシ西部のブレスト州だった。武市の病院で働き始めて半年。事務長から「次に検診に行く時はお願いしますね」と言われたのが始まりだった。それまで、チェルノブイリについて深く考えたことはなかった。ベラルーシって、どこにあるのだろう、と思ったという。

 ▽やりがい実感

 東欧の小国は一面の銀世界だった。首都ミンスクはクリスマスの照明で華やかだった。しかし、地方の病院は薄暗く、設備も古い。プレパラートを再利用しながら、血液検査をしていた。

 検診は初日から、検査機器が届かないトラブルに見舞われた。慣れない生活に体調も崩した。それでも確かなやりがいを感じた。以前検査を受けた患者が医師に会いに来たり、多くの患者に笑顔で感謝されたりした。毎日が精いっぱいだったが、帰国時には現地の人たちとまた一緒に働きたいと強く思うようになっていた。

 広島の武市の病院には多くの被爆者が来る。原爆投下から六十年もたつのに、放射線の影響で、いつ病気になるかもしれないとの不安を抱えている。

 「広島で働く使命を感じていますか」。そう問い掛けると、やや考えて三本は答えた。「そうですね、あまり意識はしないけど…。自分の技術を高めて、患者さんの力になりたい。そんな気持ちですかね」

 若い三本には、親子二代で被爆者医療に取り組んでいる武市のような気概は見受けられない。その半面、さらりと国境を越えてしまうような、しんの強さが感じられた。

 いまは、先端医療の現場に身を置きたいと、呉市の国立病院機構呉医療センター・中国がんセンターで働いている。「しっかりしているからね。必ずまた一緒に行ってもらいます」。三本について話す武市は、うれしそうだ。

 古巣の診療所を久しぶりに訪ねた三本をはじめ、若いスタッフに囲まれた武市は笑顔を浮かべる。「若い人たちが助けてくれるから。本当に頼もしいね」。診療所では今年夏から三本に代わり、臨床検査技師の横関雅子(25)と久保田有紀(23)が、武市に同行して遠く被災地に赴く。

 <文中敬称略>(滝川裕樹、写真も)

 チェルノブイリ関連のシリーズは、これでおわります

【写真説明】三本さん(左から2人目)との再会を喜ぶ、左から横関さん、久保田さん、武市さん


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