「遠いところをよく来てくれたね。ご飯はもう食べたの?」
広島県東部にある府中市高木町。被爆者の内田千寿子(82)を自宅に訪ねると、そんな言葉で出迎えてくれた。ちょっと前に、昼食は済ませたばかりだった。「遠慮せんでいいのに」。言葉の端々に気さくな人柄がにじむ。
内田は、チェルノブイリ原発事故の被災者を救援する市民運動の立ち上げ時から参加する。カンパを寄せてくれた人たちにお礼の手紙を書いたり、定期的に募金をしたりして、活動を支えてきた。
「大したことは何もできんのよ」。話しぶりはあくまで謙虚だ。
なぜ、喜寿を過ぎたいまも、被災地の救援に取り組んでいるのか―。その原動力は、被爆者を救えなかった六十一年前の無念の記憶にある。
▽死を待つ患者
看護婦(現看護師)として原爆投下から数日後の広島に入った。その十日ほど前、広島で従軍看護婦の研修を終えて、郷里の芦品郡有磨村(現福山市)に帰ったばかりだった。
再び足を踏み入れた広島は一面、灰色の焼け野原だった。招集先の広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院、中区)は焼けただれた患者であふれていた。
毎日、たくさんの人が死んだ。ある日、自分と同じ二十二歳という若い兵隊の鼻血が止まらなくなった。のどが詰まりそうと言うので、ピンセットを渡した。肝臓と見間違うばかりの大きな血の塊を自分で引き出した。驚いた青年は「体が溶けている。死にたくない。お父さんとお母さんを呼んでください」と泣き叫んだ。
やがて、敗戦の報が入る。だが、放射線に体を貫かれた重症の被爆者たちは、戦争が終わったというのに、死を待つばかりだった。やりきれない思いで泣きじゃくった。あれほど信奉した「お国のために死ぬ」という価値観は、吹き飛んだ。生きることの大切さを痛感した。
▽「娘を助けて」
戦後、地域の読書活動を通じて、農村女性の解放に取り組んだ地元出身の作家山代巴(一九一二―二〇〇四年)と知り合った。読書会の会報に、日々の暮らしや反戦の思いをつづったり、山代に勧められて、それを本にまとめたりした。
長男が高校に入学すると、学費を稼ぐため、地元の産婦人科で働いた。長い間、白血球の減少や心臓発作に苦しまされ続けた。戦後四十年が過ぎようとしているのに、入市した際の放射線被曝(ひばく)の傷あとが、日常生活から消えることはなかった。
そんな時、チェルノブイリ原発事故は起きた。テレビの画像を通して流される被災地の映像に、かつてのヒロシマの情景が重なった。「助けてください」。そう懇願されながら何もできなかったあの日―。今度こそ力になりたい、との一心で、地元の塾経営甲斐等らが提唱した「ジュノーの会」(府中市)に加わった。
会は、広島の医師を現地に派遣する一方、被災地から医師や子どもたちを招いた。内田も、子どもたちをホームステイで受け入れるため、六十歳代半ばになってロシア語を学んだ。一九九一年からの四年間、会は二十人以上の子どもたちを招いた。
「元気に暮らしているのかしら」。九三年、内田は一年前に来日し、被災地へと帰国した少女バーリャ(当時七歳)に手紙を送った。楽しかった日本での写真を同封した。ほどなく返事が届いた。父親からだった。
文面は悲痛さに満ちていた。「娘が死にそうだ。すぐ助けに来てください」。内田がジュノーの会のメンバーとして、チェルノブイリ被災地に向かうのは、この六年後となる。<文中敬称略>(滝川裕樹、写真も)
【写真説明】ウクライナの子どもたちから届いた写真や手紙に見入る内田さん
|