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特 集

2003.6.10
(4) 原告心理  「被爆者の責務」と決断

 集団提訴する被爆者たちの多くは当初、「裁判(沙汰(ざた))なんて…」と尻込みしていた。広島県甲田町の鳴床清吉さん(79)、輝子さん(74)夫妻もそうだった。

「原爆は二度とあってはならない。訴訟を通じてそう訴えたい」。声を振り絞る鳴床さん夫妻

 五十八年前のあの日、清吉さんは陸軍憲兵学校に入学前、甲田町に里帰りしていた。爆心から直線で四十キロ以上離れているが、「風」を感じた。翌日、市中心部に入り、一カ月間以上、死体処理などにあたった。

 昨年九月、食道がんで原爆症の認定を申請。今年二月に却下された。胃かいようなどで手術を繰り返し、食道がんの摘出手術はもうできない。放射線治療もつらい。体調を崩して急に倒れることもしばしばある。

 困難伴う準備

 提訴の準備で広島市内に出かけ、弁護士と打ち合わせするのもきつい。病気だから認定を申請するのだが、病気ゆえに提訴は困難さを伴う。

 輝子さんは、一カ月早い昨年八月、白内障で認定を申請。今年一月、やはり却下された。

 三原市の女子師範学校臨時教員養成所に通っていたが、病気療養のため帰郷していた。田中町(現中区)にあった病院の受付で、付き添った母と一歳の妹と被爆した。

 爆心地から九百メートル。炎に包まれ、建物の下敷きになった母と妹を助け出すことができなかった。思い出すと今も、後悔で胸がしめつけられる。

 教員生活を続けた戦後、その体験は話せなかった。地域で証言活動を始めたのは、つい最近のこと。「語り継がないと忌まわしい体験が無駄になる」「二度と戦争を繰り返してはならないと訴えるのが、生き残った者の責務」。そう思えるようになったから。

 夫妻はそろって十二日、提訴する。

 申請却下の直後、くしくもイラク戦争が始まった。「戦争で得るものは何もない。勝っても負けても失うものばかりなのだという事実を、まず国に認めてほしいのです」

 そばで聞いていた清吉さんも、出にくい声を振り絞る。「被爆者は終生苦しみ続けることを、核を開発する者に分かってほしい」

 精神的支援を

 被爆者健康手帳の交付や各種手当の支給などは、都道府県や広島、長崎両市が担う。原爆症の認定は、国が直接、被爆者にかかわる数少ない接点だ。だから夫妻は提訴を「国が原爆被害を認めること」と意義付ける。

 ただ、輝子さんは「手当が問題じゃないんです」とも繰り返した。認定被爆者に支給される医療特別手当は月額十四万円近くあり、三万円台の健康管理手当などと比べて高額。周囲からの視線も気掛かりだ。

 広島平和会館(中区中島町)で被爆者たちの相談にあたる宮崎安男常務理事(74)は「原爆の被害が続く以上、国は認定すべきであり、被爆者にとって正当な要求」と訴える。同時に、「周囲の心無い一言で被爆者が傷つくことも多い」とし、裁判の長期化も予測されるだけに「今後は被爆者の精神的支援も重要だ」とみている。