今回取材した被爆者十四人は、調査代表団を受け入れた現地の被 爆者団体「反核平和のための朝鮮被爆者協会」が確認した被爆者の
中から同協会が選んだ。広島の被爆者が十人、長崎が四人。金明愛 さんは自宅で、その他は平壌市内の会館、ホテルなどで取材。大半
は同協会の通訳を介したが、日本語で会話できる被爆者からは直接 話を聞いた。
協会によると、現在確認している被爆者は千九百五十三人。だ が、広島、長崎の内訳や生存者数など詳しいデータは「調査中」と
した。
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朴文淑さん(58)=反核平和のための朝鮮被爆者協会副会長。長崎市で両親と被爆。60年帰国
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三年前に母と兄を相次いで亡くし、残った家族は私一人だけにな った。こちらの被爆者は「日本は自分らの死を待っている」と思っ
ている。日本政府はきっちり謝罪し、補償すべきでしょう。今の日 本政府に共和国の被爆者問題を解決しようとする姿勢が見えない。 |
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被爆時、西区横川町で土木作業をしていた父を家族全員で捜し た。私は母に背負われていた。胸と腹いっぱいにやけどを負った父
は、治療も受けられず、三年間苦しんで死んだ。看病した姉も当時 は髪が抜け、今は目が見えない。広島では苦しい思い出しかないか
ら、治療を受けるためでも二度と行きたくない。
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原爆が落ちた時は親せきがいた岡山にいて、二日後に広島市へ帰 った。家は平和記念公園の近くにあったんですよ。母は72年、父は
91年に広島赤十字・原爆病院で亡くなりました。私一人だけ帰国し たので死に目には…。日本にいた両親の治療は無料で、補償(特別
葬祭給付金)ももらったと聞き、複雑な思いです。
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表鉉国さん(62)=広島市中区舟入川口町で被爆。61年帰国
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視力がだんだん衰え、今、白内障になっている。神経痛で左腕は 自由に動かないし、気が狂うほど全身がかゆい時もある。そういう
痛みの中で今まで生きてきた。被爆した両親も苦しみ、悩んだ揚げ 句に死んだ。母は貧血などでほとんど外に出られず、精神的に病ん
だまま亡くなった。 |
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金文国さん(80)=長崎市内で被爆。45年ごろ帰国
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原爆が落ちた場所を見に行く途中、何かの機械が溶岩のように小 川に流れ出し、水で固まっていた。家畜の死がいが放置してあり、
恐ろしくてすぐに帰ったのを覚えている。徴用で引っ張られた日本 で被爆したのに、日本人と共和国の被爆者で差があるのは道理に合
わないではないか。 |
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原爆当時は、深堀造船所の分工場でプロペラをつくる作業中だっ た。病院みたいな所に行ったけど薬ももらえず、ほうっておかれ
た。苦労は、徴用で連行された時からじゃない。幼いころから日本 のために働いてきたんだ。五十年以上過ぎても、今も共和国の被爆
者は放置されている。激しい怒りを感じますよ。 |
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強制連行された深堀造船所から死体処理に駆り出され、一日に十 数人運んだ。九月に帰郷した日、私が原爆で死んだと思っていた祖
母が亡くなった。ずっと皮膚病に悩まされ、これまで何回入院した か分からない。でも、治療のために日本へは行かん。連行され、な
ぜまた行かねばならないのか。 |
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李福順さん(70)=広島市南区宇品御幸で被爆。72年に帰国
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南区皆実町に住んでいました。戦後、専売公社(現日本たばこ産 業)の前で、喫茶店「カンナ」を経営してました。北朝鮮の被爆者
として90年、初めて原水禁世界大会に参加した主人はもう、がんで 亡くなりました。広島か…。懐かしいね。体も思うようにならない
し、もう行けないでしょうね。 |
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東区尾長町に住んでいました。帰国してからずっと体調が悪く、 病院にかかりっきり。今も放射線医学研究所の先生に相談していま
す。被爆者だってことを分かってくれるから安心なんです。あと何 年生きられるか分からんけど、働くこともできず、ずっと面倒を見
てくれた国に申し訳なくてたまりません。 |
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被爆した時は、お母さんが私を背におんぶしていた、と聞いてい ます。これまで、日本から多くの人が被爆者の話を聞きに来たけ
ど、私らの希望は何一つかなったことはありません。日本にいる被 爆者と同じ補償がほしいだけなんです。それと、お世話になった担
任のコウダ・タケシ先生に一目でいい、会いたい。 |
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