朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に住む被爆者の実態を調べる ため、六月二十三日から五日間、平壌市を訪れた「朝鮮被爆者調査 代表団」に同行した。代表団の一人、広島県朝鮮人被爆者協議会の 李実根会長(73)の尽力で、初めて十人の在朝被爆者を確認したのが 一九八九年。かつて「被爆者はいない」と繰り返した国は、被爆者 を掘り起こし、支援を始めていた。日本政府は新たな在外被爆者支 援策に動き始めたが、国交のない北朝鮮への具体策は未知数。置き 去りにされてきた在朝被爆者の声を聞いた。(城戸収) |
「自分が被爆したことを知ったのは、四十歳の時。母が亡くなる 直前に話してくれたんです」。平壌市中心部にある十五階建てマン
ションの一室。金明愛さん(58)はそう打ち明けた。
金さんは、福山市御幸町の自宅で一緒に住んでいたおばに背負わ れ、被爆直後の広島市に入った。知人を訪ね、数日後に福山市に帰
った、という。
「なぜ自分が病気がちで苦しまねばならないのか。母にそう尋ね たら、被爆が原因だと言われた」と金さん。「母はその時、私の子
どもに被爆者であることを絶対話してはならないと言った。私も打 ち明けることはできなかった」
だが今年一月、長女が三十四歳で亡くなった。白血球減少症だっ たという。「元気だった娘を突然亡くし、自分の被爆を隠してはだ
めだ、と思ったんです」。現地の被爆者団体にも初めて打ち明け た。
今は、二女李香蘭さん(33)夫婦の家に身を寄せている。子宮から の出血や貧血も頻繁にあり、肝臓に腫瘍(しゅよう)も見つかっ
た。
「体の弱い私でも、世界の平和を訴えることはできる」。部屋の 天井には、折り鶴がつり下げられてあった。
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「長女の死が、被爆を打ち明けるきっかけになった」と語る金明愛さん
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金高万さん(84)と長女羅敬順さん(66)、三女羅潤順さん(56)
◆ 日本からは薬一つなく
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県朝鮮人被爆者協議会の李会長の姿を見て、平壌市内の会館で待 っていた母子が声を上げた。金高万さん(84)と長女羅敬順さん(6
6)、三女羅潤順さん(56)。帰国前に住んでいた広島市安佐南区古市 で、李会長と近所同士だった。思いがけない約四十年ぶりの再会
に、歓声とおえつが交じった。
「今もあの日を思い出すと体が震える」。金さんは、言葉を選び ながら語り始めた。金さんの夫を捜すため、三人は被爆直後の廃虚
の広島をさまよい、放射線を浴びた。
一家はあの日、親類の結婚式のため、現在の広島県千代田町にい た。夫は西区天満町にあった当時の自宅の様子を見に行ったまま帰
らない。後を追って金さんが入市したのは八月九日。敬順さんの手 を引き、潤順さんを身ごもっていた。
病に苦しんだ夫を一九五三年に失い、一家は六一年に帰国。だ が、その後も病との格闘は終わらなかった。金さんは長期入院を何
度も繰り返し、二人の姉妹はともに四十五歳で子宮を摘出した。
金さんは「日本から薬一つもらえずに死ぬと思うと寂しい」。途 切れた母の言葉を継ぎ、潤順さんが訴えた。「母さんの手に、日本
の被爆者と同じものを握らせてください。それが願いです」
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40年ぶりに再開した李会長の手を握る金高万さん(中央)。体調がすぐれず、いつも2人の娘が付き添っていた
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調査団長 高木健一弁護士に聞く ◆ 病院の建設求めていく
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朝鮮被爆者調査代表団の団長で、日弁連人権擁護委員会朝鮮人被 爆者問題調査委員長でもある高木健一弁護士(東京都)に、今回の
調査の成果や、在朝被爆者支援に向けた日弁連の取り組みなどにつ いて聞いた。
―十四人の被爆者に会いました。
置き去りにされた在朝被爆者の救済を日本政府や社会に働き掛け るには、現地の被爆者の声を届けるしかない。北朝鮮には、広島弁
で話す被爆者が確かにいた。在朝被爆者の実態は十分明らかにされ ていないだけに、直接話を聞くことができたのは収穫だ。
―日本政府が進める渡日治療事業に、批判的な声が多くありまし た。
高齢化した被爆者が渡日する困難さに加え、「治療したと日本に 宣伝されるのが問題だ」という考えが北朝鮮当局にある。事業中止
になった韓国の場合と同様の議論だが、やはり被爆者個人の意思が 尊重されるべきだ。
―日弁連として、初の在朝被爆者調査をどう生かしますか。
抽象的な「謝罪と補償」の言葉で、日本政府を動かすのは難し い。だから今回、被爆者病院建設を望む現地の意思を確認できた意
義は大きい。戦後責任の第一段階としてそうした施設建設をするよ う、日本政府へ求めていきたい。
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高木弁護士 |
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放射線医学研究所(平壌市) ◆ 設備・情報ともに不足
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北朝鮮で会った十四人の被爆者たちは口々に、健康不安を訴え た。一方、医療費は無料であり、多くが「国の恩恵を受け、被爆者
は優先的に治療してもらっている」と強調した。被爆者医療の実情 はどうなのか。一端を担う放射線医学研究所(平壌市)を訪ねた。
市中心部から車で約二十分。住宅街の一角にある研究所で、金昌 信所長と白衣の医師三人が取材に応じてくれた。「共和国での被爆
者医療の歴史は浅く、日本より遅れているのは事実」と、金所長は 視線を落とした。
研究所が、被爆者を治療し始めたのは一九九五年という。昨年、 研究所を訪れた被爆者は百六十五人。同年二月に発足した「反核平
和のための朝鮮被爆者協会」が確認し、治療を望めば紹介するとい う。
だが、「あくまで研究所であり、被爆者専門の病院ではない」と 金所長。韓英愛医師は、がん診断に欠かせない磁気共鳴診断装置
(MRI)などの設備がないことを嘆いた。「正確な診断もでき ず、結局、疾患に応じた別の病院に回すことになる」
昨年三月、日本政府の調査代表団に参加し、現地の医療機関を訪 ねた広島原爆障害対策協議会健康管理・増進センターの伊藤千賀子
所長は「総合して日本の一九六〇年代後半から七〇年代初めのレベ ル。被爆者に対する医師の知識も不足している」と指摘する。
また、医薬品不足も深刻そうだ。今回、取材した被爆者の中には 「皮膚病に硫黄を加工して塗っている」「病院で薬草をもらう」と
話す人もいた。
広島の医療機関を視察した経験を踏まえ、金所長は「被爆者に必 要なのは、治療と研究を兼ねた総合的なセンター」と言う。「北朝
鮮の医師がそう願っていることを日本政府に伝えてほしい」。設備 も薬も足りない中で、被爆者と向き合い始めたばかりの医師の、率
直な思いだろう。 |
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「被爆者の治療と研究を兼ねた総合センターが必要」。医師たちは日本からの支援を訴えた
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