中国新聞
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第三部 韓国編
 6 日本人妻
 対日感情 思い複雑 夫先立ち 一人子育て

 

(写真右)海峡を渡り、生き抜いてきた久保さん(左)と柳さん(慶尚南道陝川郡)
2002/07/27
  日本人妻であり、在外被爆者でもある。厳しい対日感情がある韓 国で生き抜くのは、「重荷」を背負うことでもあった。

 久保ミサエさん(80)。田園風景が広がる慶尚南道陝川郡で、静か に暮らしている。

 鹿児島県に生まれ、何不自由なく育った、という。広島県内に住 んでいた姉の紹介で、広島市に移り、助産院で働いた。

 ▼結婚…出産…ピカ

 運命との出会いは一九三八年だった。夜道で男たちにからまれた 時、ある男が助けてくれた。西村松男と名乗った。すらすら日本語 を話した。朝鮮半島の出身だった。二人は恋に落ち、翌年長女が生 まれた。

 鹿児島の両親に許しを求めると、「親子の縁を切る」と勘当を突 きつけられた。理解が得られないまま、婚姻、出生届を出した。続 いて長男が生まれた。福島町(西区)に暮らし、そこで、ピカに遭 った。

 家族四人は無事だったが、住んでいた長屋は全壊した。朝鮮人は 迫害される、と聞いた。「一緒に古里へ帰りたい」と、夫は言い出 した。見ず知らずの国に行きたくはなかったが、夫に反対はできな かった。陝川郡に渡った。

 ハングルは全く分からなかった。小屋を建て、荒れ地を耕した。 食べ物は足りなかった。

 偏見を恐れ、被爆の事実は隠した。韓国を植民地支配した日本人 としての複雑な思いもあった。夫の愛情と、五人に増えた子の成長 を頼りに生きた。

 が、夫には病魔が忍び寄っていた。帰国して五年たったころか ら、胃腸の痛みと消化不良が続いた。家族のため、夫は鎮痛剤を飲 み、建設現場で働いた。そして六九年、夫はあっけなく息を引き取 った。

 「前だけを見て生きよう」。悲しんではいられなかった。畑仕事 の傍ら、広島で経験した助産婦としても働いた。いつしか、ハング ルの方が日本語より楽になった。五人の子は中学や高校を出て巣立 っていった。

 万事控え目の久保さんが、日本人であることにこだわったことが 一度ある。創氏改名した名前を韓国式に戻す韓国政府の政策を受 け、村役場が「韓国名に直せ」と求めてきた。しかし、かたくなと して譲らなかった。

 孝行できなかった両親への償いのつもりだった。

 ▼昨夏に手帳を取得

 「日本で治療を受けてみたい」。そんなことを言い出したのは五 年前ごろからだ。老い、望郷の念がわいた。昨夏、長女夫婦と広島 市を訪れ、被爆者健康手帳を取った。

 今は、亡くなった長男の妻と二人で暮らす。腰が悪く、昼間はテ レビを見て留守番する。少し痴呆の症状も出始めた。

 被爆した日本人妻の記録を残そうと、今春、長女の夫柳永秀さん (69)が体験を聞き取り、自分史をまとめてくれた。

 「失敗した生涯」。A4判十七枚の題名は、そう書かれていた。




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