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2002/07/28
韓国の海の玄関口、釜山市に暮らす河壬植さん(69)は、六人きょ うだいが集まる度、通訳に忙しい。日本語とハングルが飛び交う。
「わしがおらんかったら、チンプンカンプンになるんよ」。すらす ら日本語で語る。▼母は悔やみ続けた 広島市天満町(西区)の祖母の家にいて被爆した。三男は父とと もに行方知れずのまま。生き残った六人のうち、四男の河さんと末 弟は母とともに韓国に引き揚げ、四人は広島にとどまった。 日韓で離れ離れの歳月を経て、互いはそれぞれの言葉だけを話す ようになった。唯一、当時十四歳だった河さんは日本語を忘れず、 ハングルも覚えた。法事や旅行で家族が再会すると、通訳役が回っ てくる。 末弟を少し気の毒に思う。四歳で韓国に引き揚げたから日本語は 全く分からない。兄や姉には会いたがるが、広島に行くと「言葉が 分からないし、面白くない」と帰りたがる。 「まさかこんなことになると分かっていたら、韓国には帰ってこ なかったのに…」。十一年前に亡くなった母は、口癖のように繰り 返していた。 ▼待っていた生活苦 被爆後も日本に住み続けるつもりだった。しかし、「韓国人は日 本から追い出される」といううわさを聞き、母と長男が話し合っ た。 「全員で帰っても家はないし、往生する。私が先に帰り、きっと 呼び寄せるから」。母は河さんと末弟を連れて古里の晋州市へ。し かし、当てにしていた田畑は親類が使っていて、返してもらえなか った。 しばらく日本とは国交がなく、生活は苦しい。子どもたちを呼び 寄せるのはかなわなかった。「韓国に来ても苦労するのは目に見え ている。日本にいた方がいい」。家族が一つの国で暮らすことはで きなくなった。 「いつも兄さんや妹に会いたいと思っていた」と河さん。再会を 果たしたのは二十年後だった。釜山で日韓を往復する貿易船の船員 になり、広島の宇品(南区)に寄港した際、長兄に会うことができ た。 数年後、兄たちは、母とともに広島に招いてくれた。涙ながらに 再会を喜んだ。母の顔を見た妹は「なんで私を置いていったの」と 抱き合い、泣きじゃくった。 ▼弟妹には会えるが 一九八九年、兄の勧めで被爆者健康手帳を取った。手帳があれ ば、日本で無料の治療が受けられ、健康管理手当も支給される。そ の後、狭心症を患い、毎年のように渡日し、検査や治療を受ける。 弟妹の家に泊まれるので気軽に行ける。 しかし、行き来する度、国境の壁を感じずにはいられない。日本 に暮らすきょうだいは毎月手当をもらえる。自分や弟は韓国に戻っ た途端、支給は打ち切られる。 「同じ場所で、同じ原爆を受けたんじゃから、日本に残った人で も、帰った人でも、同じように扱わんにゃいけんよねえ」。家族が そろった記念写真を見ながら、河さんは広島弁でつぶやいた。 |
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