2000・1・6
現地に支援団派遣
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医療支援のため東海村へ向かうHICARE派遣の医師や放
射線技師たち。広島の3つの支援団が現地で活動した。(1999
年10月2日朝、広島空港)
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広島・長崎 対応に差
暮れも押し迫った昨年十二月二十七日。東京・霞が関の科学技術
庁に、放射線医療などの研究者が全国から集まった。茨城県東海村
のジェー・シー・オー(JCO)で起きた臨界事故で、原子力安全
委員会が設けた健康管理検討委員会の七回目の会合である。
10人中4人占める
検討委に課せられたのは、被曝(ばく)の恐れがある周辺住民に
対する健康管理のあり方の提言である。取りまとめ役の主査を務め
る放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の長瀧重信理事長をは
じめ、委員十人のうち四人が広島・長崎の研究者だ。
「晩発性障害に備え、どんな健康管理をすべきか、対象者をどう
絞り込むか。半世紀にわたる広島・長崎の研究の蓄積を生かした
い」と長瀧理事長。被爆地の委員たちはこれまで、「心のケアも非
常に大切」「被ばく線量別にグループ分けしてケアすべきだ」な
ど、被爆者医療の経験を踏まえた意見を述べてきた。
放影研の被爆者追跡調査では、被爆後五―十年に白血病がピーク
に達し、約二十年後から肺がんなど、三十年後から胃がんなどが増
えている。調査対象者の平均被ばく線量は二百ミリシーベルトだが、
臨界事故の被ばく者は、死亡や重症の三人を除くと、一二〇―〇・
〇三ミリシーベルト。低線量被ばくの影響は原爆被爆者の調査でも未
解明だ。いまだに周辺住民の線量が定まっていない中、検討委は慎
重に論議を進めている。
想定外だった国内
これまで被爆地のデータと治療の蓄積は、放射線防護の国際基準
づくりや、原発事故など海外の核被害者の支援に生かされてきた。
広島で海外支援の中核を担ってきたのは、行政や医療、研究機関
が一九九一年に設立した放射線被曝者医療国際協力推進協議会(H
ICARE)。名称通り国際協力が目的で、国内事故への対応は想
定外だった。昨年九月三十日の臨界事故では、寄り合い所帯のため
機敏な対応が難しかった。
広島大原爆放射能医学研究所(原医研)の鎌田七男教授は自戒を
込めて振り返る。「放射線被害が起きれば、支援に駆け付けるのが
被爆地の責務。長崎に比べ、主体性や自覚に欠ける面があったので
は」
事故から一夜明けた十月一日。放影研は、厚生省の要請を受け、
現地での情報収集のため既に研究所を出ていた医師を急きょ呼び戻
し、四人の医療スタッフを単独で送り込んだ。原医研は同日夜、独
自派遣を決めた。結局、広島赤十字・原爆病院(中区)の医師らも
加わったたHICAREを含め、三つの医療支援団(計十九人)が
連携を欠いたまま、別々に現地に入った。
広島とは対照的に、長崎では、茨城県の要請後五時間足らずで総
勢二十五人の合同派遣を決めた。「知事のリーダーシップがあった
からこそ」と長崎県の辻村信正医療保健監は語る。
新たな連携を模索
東海村事故の教訓も踏まえ、広島で新たな試みも出てきた。原医
研は放射線事故への独自の支援体制を整えた。事故が起きたら、医
師と物理学の専門家を直ちに派遣し、必要に応じて追加支援チーム
を出す。放影研と原医研は昨年十二月、共同研究に乗り出すことに
した。放射線被ばく事故に即応できる西日本の医療拠点を目指す動
きもある。
国立大が独立法人化を迫られる中、存在意義のアピールが必要な
原医研。日米共同運営の研究機関として財政面の不安も抱える放影
研。長瀧理事長は四日の年頭訓示で、「比治山(放影研の所在地)
の上から論文を発表するだけでは生き残れない」と呼び掛けた。そ
れぞれの組織事情を背負いながら、模索を始めている。
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