2000・1・5
後手に回る住民ケア
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広島の医療支援団も加わり、事故後に行われた住民の被ばく
検査。放射線の痕跡は確認できなかった(1999年10月2日、
茨城県那珂町の本米崎小学校)
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中性子線は未確認
会場に、重苦しい空気が漂っていた。茨城県東海村の舟石川コミ
ュニティーセンターで昨年十一月末、茨城県原水協などが開いた臨
界事故シンポジウム。事故を起こしたジェー・シー・オー(JC
O)の周辺住民は、見えない放射線の恐怖がぬぐい切れない様子だ
った。
「未解明部分多い」
「将来、がんになったら被曝(ばく)の影響と言えるのか」「国
や医師は大丈夫と言うが、本当か」。村民ら約二百人の質問は、パ
ネリストの一人、福島生協病院(広島市西区)の斎藤紀病院長に集
中した。
「被ばく線量が少ないから影響がない、とは断じられない。広
島、長崎の原爆被爆者の追跡調査でも、低線量被ばくには未解明の
部分が多い」。広島大原爆放射能医学研究所を経て、今も被爆者治
療に携わる斎藤病院長の言葉は、参加者の胸に重く響いた。
科学技術庁が下方修正した、臨界が起きた時から終息までの推定
被ばく線量は、避難区域境界の三百五十メートル地点で一・二ミリシ
ーベルト。二百メートル地点では七・九ミリシーベルトとされる。一
般人の被ばく線量限度は年間一ミリシーベルトだが、「直ちにがんの
増加などの健康影響を懸念する必要はない」というのが科技庁の見
解である。
「訴える先がない」
いまだに個々人の被ばく線量の推定値が示されないことも、周辺
住民の不安を募らせる。
昨年九月三十日の事故当日、自動車部品加工会社を経営する大泉
昭一さん(71)は、現場から約百三十メートルの工場内にいた。午後
八時ごろ、舟石川コミュニティーセンターで簡易測定器による被ば
く検査を受け、異常は出なかった。「被ばくしていないはずはな
い。なのに、不安を訴える先はどこにもない」
臨界事故では放射性物質の漏れは微量で、中性子線を主体に放射
線が放出された。茨城県は広島の医療支援団の協力も得て、約七万
五千人を簡易測定器で検査したが、その目的は放射性物質による汚
染測定。住民に対し、中性子線被ばくの痕跡を確認する検査はほと
んど行われなかった。
中性子線を浴びると、体内のナトリウムが放射線を出す物質に変
化する。その被ばくの痕跡は、十五時間足らずで半分に減る。「放
出されたのが放射線と分かった時、すぐに検査をすれば間に合っ
た。住民へのケアをおざなりにしたと言わざるを得ない」。被ばく
した原発労働者の治療に当たっている阪南中央病院(大阪府松原
市)の村田三郎医師は、行政の対応を批判する。
ストレスのせいに
臨界事故の当日、頭やのどの痛みを訴えた周辺住民たちもいる。
現場から約四百メートルの所に住む主婦(50)は、事故から約一週間
ほど、口内炎や体のだるさが続いた。「ストレスの方が被ばくの影
響よりも悪い、と医師に言われた。人の気も知らないで、と腹が立
って…」と訴える。
「不安が不安を呼ぶ悪循環が続いている」。城南病院(水戸市)
の山川文男病院長は、村民の心の内をそう表現した。事故後の対応
が後手に回ったうえ、住民の健康不安の訴えには「大丈夫」と繰り
返すだけ―。国、県、医療機関などへの不信感が、放射線に対する
不安を増幅させた、とみる。
斎藤病院長はこれまで、東海村を三度、訪れた。「今は線量だけ
が被害のバロメーターになっている。住民が訴えた症状が、すべて
ストレスと片付けられる危険はないのか。住民や被ばく者の側に立
って話を聞く姿勢が求められている」。それが、不安の連鎖を断ち
切るための近道と思っている。
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