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2000年4月9日
6 看護兵
ジョージア州の州都アトランタから北東へ車で約二時間。キャロ ル・ピクーさん(43)の家は、トコア町のはずれの丘の上にぽつねん と立っていた。 ![]() 「どう、いい眺めでしょう。ここなら空気も汚染されていないし ね。私の体のために、三年前にルイジアナ州から家族で移ってきた の」。ピクーさんは、四方に広がる遠くの山々に目を移しながら言 った。 古い農家を改造した平屋建て。部屋に案内され、テーブルに置か れたおびただしい数の薬瓶に目を奪われていると、「驚いた?でも、 それは薬じゃなくて各種のビタミンや天然のミネラルよ」と、一つ ひとつ手にして説明してくれた。 一九九九年四月から、フロリダ州の開業医にかかり、「ホメオパ シー」と呼ばれる自然の治癒力を生かした治療法を採り入れている のだという。食品も有機野菜を中心に有機食品しか口にしない。 「私の体は化学薬品や劣化ウランなどで汚染され、免疫性を失って いたの。昨年の四月までは足も立たなかったのに、今では軽い運動 ができるまでになったのよ」 十六歳からモデルをしながら、二十二歳で「国のために」と陸軍 に飛び込んだ。九一年の湾岸戦争時は、米軍の医療研究機関がそろ うテキサス州サンアントニオから「戦闘支援病院」のベテラン看護 兵として、夫のアンソニーさん(41)と一人息子のピアース君(一三 歳)を残し、従軍した。 ![]() 地上戦(二月二十四日〜二十八日)が始まると、三百人収容の野 戦用ベッドを半分にし、隊員も半分の百五十人に絞って前線へ。最 も激しい戦闘があった「死のハイウエー」を通過しながら、そのそ ばに野戦病院を設営。友軍の誤射で負傷した米兵、投降したイラク 兵、戦闘地域に住むイラクの住民ら、病院を訪ねた全員の治療に当 たった。 「一方で殺しながら、他方で助ける。矛盾を感じながらの仕事だ ったわ。特にむごい死体には、医療従事者としていたたまれなくて …」。当時の写真を示しながら、ピクーさんは深いため息をつい た。 部隊は戦闘終結後も、四月初旬までイラク南部に駐留した。しか し、既にその時にはピクーさんの下半身の筋肉は機能しなくなり、 失禁するようになった。胃腸の働きもほとんど止まった。 化学戦に備え強制的に取らされた大量の臭化ピリドスチグミン (PB)、生物兵器用のワクチン、毒性の強い劣化ウラン粒子の体 内への吸入…。四月下旬にサンアントニオに戻った時は、甲状腺 (せん)機能を失い、避妊手術も受けざるを得なかった。九二年か らは、カテーテルを使っての排尿が続く。 「病気の原因を突き止めるために、会社勤めの夫と蓄えていた貯 金もすべて使い果たした。軍がしてくれたことは、おむつを支給し てくれたぐらいよ」 同じ隊の百五十人のうち約四十人が重い病気を抱え、既に十人以 上が死亡しているという。 ![]() 九五年に除隊。事実を覆い隠そうとする国防総省や退役軍人省に 対する批判的な活動のために、盗聴をはじめさまざま嫌がらせを受 けてきた。が、決して屈することはなかった。 「私は医師と同じように命を 救う看護婦という立場にありながら、破壊をもたらす戦争機能の一 部だった。今は残された人生を破壊ではなく、癒(いや)しのため に使いたいの。この体では大したことはできないかもしれないけど …」 九七年と九八年にイラクを訪ねたピクーさん。体調が許せばもう 一度訪問し、イラク人と心を通わせたいと願う。 |
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