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2000年6月3日
2 夫の死
「犬を連れて夫とよくこの道を散歩したわ」。長身のジュリー・ ミーンズさん(39)は、緑の小麦畑が広がる田舎道を足早に歩きなが ら懐かしそうに言った。二頭の愛犬が尾を振って寒風の中を走り回 る。「彼がどれほど苦しんで亡くなったかを思うと、今でも悔しく て…」 ![]() ロンドンのキングスクロス駅から列車で北へ三十分。ヒッチン市 の駅で降り、タクシーで十分足らずの田園地帯に、ジュリーさんと 夫のスティーブンさんが暮らした家はあった。 「これが夫よ」。二十分ほどで家に戻った彼女は、居間でアルバ ムを広げた。戦車の前で銃を構え、四人の仲間とイラク領内で記念 写真に収まるスティーブンさん。厚い胸板、屈強な体格。陸軍戦車 隊員として一九九一年の湾岸戦争に参加するまでは、問題ひとつな い健康体だった。 「湾岸戦争ではいつも最前線よ。劣化ウラン弾で破壊されたイラ ク軍戦車内に兵士が残っていないかをチェックするのも任務だっ た。クウェートからイラク領内に進攻する時は、一番ひどい戦闘の あった『死のハイウエー』を通ったって言ってたわ」 九〇年十月、駐留中のドイツの英国軍基地からサウジアラビアへ 派遣され、帰還したのは地上戦の終了(二月二十八日)から二週間 後の九一年三月半ば。ジュリーさんと知り合って日の浅いスティー ブンさんは四月初旬、休暇を利用してヒッチンの彼女の元を訪ねて求婚。その年の八月に結婚した。 ![]() 「結婚後は、四歳だった私の子どものマックを連れてドイツ北部 の基地内に住んでいたの。自分の子どものようにかわいがってくれ たわ」。幸せな日々の中で、中東から続く夫の下痢だけが気にかか った。 その年の十月に三十歳の誕生日を迎えたスティーブンさんは、定 期検診の際に軍医に症状を訴えた。軍医は原因を調べようともせず 「喫煙のせいだ。禁煙すれば治る」とだけ答えた。喫煙で下痢など したことのない彼は、いいかげんな診断に憤りをあらわにした。 「夫は戦車部隊で劣化ウラン弾を扱っていたから名前だけは知っ ていた。でも、何の害もないと教えられていたし、化学戦に備えて 取った予防薬がどんな作用を及ぼすのか、何も知らなかった」とジ ュリーさん。 九三年三月にヒッチンに戻り、スティーブンさんは近くの陸軍基 地で、国防義勇隊の教官を務めた。一年後に長女のロクサンちゃん (6つ)が生まれたものの、喜びとは裏腹に夫の下痢は一層ひどくな り、慢性的なけん怠感や指の硬直も目立ち始めた。 九六年に体調が一気に悪化。精神的にも不安定になり、仕事がほ とんどできなくなった。「軍医が信じられず、民間の熱帯病専門医 や精神科医にも診てもらったけど、薬が増えるばかりで一向によく ならなかったわ」 やがて一人でトイレに行くのも困難になり、体中の関節が痛ん だ。そして九九年四月、心臓発作で三十七歳の若い命を落とした。 除隊から三カ月後だった。 二人の子どもと夫の世話に明け暮れた日々。ジュリーさんは夫の 死後まで、多くの湾岸戦争退役兵が病気で苦しんでいるのを知らな かった。「同じ退役軍人でつくる協会もあった。夫の死後、年末ま でに心臓発作で死亡した退役兵が十二人もいたのよ」 ![]() 現在は政府から支給される夫の軍人恩給千ポンド(約十六万五千 円)で切り詰めた生活をするジュリーさん。「こんなお金より健康 な体の夫を戻してほしい。国防省は、病気と劣化ウランなどは無関 係ということに研究費や人件費を使うだけ。湾岸で病気になった退 役軍人らを助けようともしない」 ジュリーさんは国防省に、これ以上犠牲者を出さないよう病気の 湾岸退役兵と正面から向き合い、治療法を確立すべきだと訴える。 |