亡くなった ミーリャさんの家族 |
父親のルヌムハメッド・シャギアフメトフさん |
母親のサルバルさん |
長兄のムハメッドジャンさん |
三兄のラシードさん |
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土が水が 体むしばむ 説明も避難指導もなく ロシアの首都モスクワから東へ約千五百キロ。大小三千五百以上の湖が点在するウラル山脈南東に位置する旧ソ連時代のかつての秘密都市「チェリャビンスク65」と隣接のプルトニウム核施設「マヤーク生産協同体」は、視界を遮る深い森の向こうにあった。
「あの煙突がプルトニウム工場のものだ」。チェリャビンスク市を拠点に放射線被害者の支援をする市民団体「アイグリ(月の花)」共同代表のガスマン・カビーロフさん(44)が、湖の向こうにそびえる煙突群を指して言った。「マヤークは国内最初の兵器用プルトニウム生産工場だ。そのための原子炉五基をはじめ、再処理工場などがある。ロシアで最悪の放射能汚染を引き起こしてきた」 マヤーク核施設は、広島・長崎原爆投下直後の一九四五年十月、ソ連政府が最初のプルトニウム生産工場敷地として決定。四九年初頭には照射済みの核燃料からプルトニウムを分離し、同年八月二十九日のソ連初のセミパラチンスク核実験場(カザフスタン)での原爆実験成功に導いた。 東西冷戦下、激しい対立を続けていた米国に遅れること四年余。予想外の速さの実験成功は米政府を驚かせ、より破壊力の大きい水爆開発など米ソ間の新たな核軍拡競争の引き金となった。 が、開発優先のその裏で、環境を省みない化学・放射性物質の川や湖などへの投棄や事故が続発。今も高レベル放射能汚染のため、マヤーク核施設周辺の約三百五十平方キロメートルは「健康保護ゾーン」として、農業や居住を禁止。広島市の面積の二倍余に当たる約千七百六十平方キロメートルが環境上の「モニタリングゾーン」に指定されている。
九四年まで「チェリャビンスク65」というコード名でしか示されなかった現在のオジョスク市。マヤーク核施設で働く従業員と家族ら約八万五千人が住むその町は健康保護ゾーンに隣接し、従業員は高レベル放射性廃棄物などが投棄された湖や人工貯蔵池がある敷地内で今も働く。 「放射能汚染の範囲はそんなもんじゃないよ。テチャ川に投棄された放射性廃液はオビ川に流れ込んで、千五百キロ先のカラ海まで汚染したんだ。兵器用プルトニウムの生産は九〇年に中止されたけど、テチャ川流域の汚染は今でもひどいもんさ」 カビーロフさんははき捨てるように言うと、煙突群の見える湖畔を離れ、自分の生まれ故郷でもあるテチャ川流域のムスリュモボ村へと、ハンドルを東に切った。 村はマヤーク核施設の下流約八十キロにある。道路の両側にうっそうと茂るシラカバ並木を抜け、田舎道からいったん幹線道路へ。さらに田舎道に入ってしばらく走ると、川幅七〜八メートルのテチャ川が見えてきた。 ムスリュモボ村の手前で車から降り、カビーロフさんと一緒に二十メートルほど坂を下って川辺に立った。ガンマ線用の持参の測定器を、足元に近づける。「ピ・ピ・ピ・ピ・ピ…」。警告音を発し始めた測定器のデジタル目盛は、毎時〇・〇六ミリ(六〇マイクロ)シーベルトを指している。 広島で浴びる自然放射能による線量は、毎時約〇・〇八マイクロシーベルト。その七百五十倍である。この場に十七時間いるだけで、一般人の年間被曝(ばく)線量限度である一ミリシーベルトを超えてしまう。「新しくたい積した土を二十センチも掘り起こせば、放射線はもっと強くなる」とカビーロフさんは言う。 マヤーク核施設は、操業当初の四八年から五一年まで、高レベル放射性廃液をテチャ川に直接捨てた。さらに五六年まで、中・低レベルの放射性廃液の投棄を続けた。ガンマ線とベータ線を放出する半減期三十年のセシウム137、ベータ線を放出する半減期二十九年のストロンチウム90…。 マヤーク核施設が生み出した放射性廃棄物の量や周辺の汚染状況を調査した「ゴルバチョフ委員会」の報告(九一年)によると、五六年までに七千八百万立方メートルの高レベル廃棄物をテチャ川に投棄。放射能量はチェルノブイリ原発事故の約五%に当たる十万兆ベクレルに達したとしている。 マヤーク当局の科学者らは、五一年のテチャ川流域調査で、汚染の進行や、三十八ある村の住民二万八千百人の間に健康被害が出ていることを突き止めていた。そのため、直接川から水を飲まないように井戸を掘ったり、人や家畜が川へ近づかないようにと金網でフェンスを設けたりした。 だが、住民避難が始まったのは二年後の五三年。マヤーク核施設に最も近い、人口千二百人余のメトリーノ村が最初だった。その後六〇年にかけて、メトリーノ村を含め二十の村の七千五百人が避難した。人口約三千二百人のムスリュモボ村の住民は、なぜか残された。 「村を離れた者にも、残った者にも放射能汚染の説明など何もなかった。だからその後も、みんな川の水を飲んだり、灌漑(かんがい)に使ったり、魚を捕ったり、泳いだりしたよ。避難民も避難するまでに外部被曝も内部被曝もしているけど、残された住民は避難民以上にその影響を長く受けているんだ」 車に戻ったカビーロフさんはこう説明しながら、テチャ川に架かる橋を渡り、川沿いの民家が立ち並ぶ未舗装道路へ入った。川べりでは牛や馬が草をはみ、川へ下りないように張られたフェンスの内側では、老夫婦がジャガイモ畑の手入れをしていた。
「ここはマルクス通り。家はあっても家族が死んだり、引っ越したりでほとんど空き家だよ。ほら、この家は私の妻の家族が三年前まで住んでいた家だ」 スレート屋根、緑のペンキがはげかけた板壁…。カギを開けて中に入る。残された古い衣類などが、かつての暮らしの面影を伝えていた。 カビーロフさんの妻ミーリャさん(41)は、兄四人、姉二人の七人兄弟の末っ子。父親のルヌムハメッド・シャギアフメトフさんは、マヤーク核施設所属の警察官として、テチャ川に人や家畜が近づかないように監視する「川の警察官」だった。 その父は六二年、四十四歳で白血病で死亡した。 母親のサルバルさんは夫の死後、生活のために月二回、川の水と土壌をサンプル用に瓶に集め、マヤーク核施設からやってくる専門家に提出した。冬場は凍らないように家の中に持ち込み、ベッドの下に置いていた。そのベッドでミーリャさんら子どもたちも寝ていたという。
母親は長い間患った後、九八年に八十歳で死亡。が、母親よりも四年前の九四年、上から三番目の兄ラシードさんが、四十三歳で心臓病のために死去。九五年には長兄のムハメッドジャンさんも、五十二歳で胃がんで亡くなった。 八一年に結婚したカビーロフさんとミーリャさんには、養子が一人。二人とも体内被曝の関係で生殖細胞に影響を受け、子どもが生まれないのだという。 後日、村から南東へ約五十キロ離れたチェリャビンスク市のアパートでミーリャさんと会った。夫とともにアイグリの活動に打ち込む彼女は、家族のアルバムを広げて言った。 「村では私の家族だけでなく、たくさんの人が死んでいた。親より先に亡くなる若者も多くて…。みんな『川の病気にかかった』と伝染病のように話していたわ。放射能の影響を知るようになったのは、八六年に起きたチェルノブイリ事故の影響が明るみに出始めてから。私たちが知ったのは九〇年のことよ」 カビーロフ夫妻をはじめ、ムスリュモボ村であった多くの住民は、放射線が人体にどのような影響を与えるか、自分たちが実験動物のように扱われた、と感じている。 「なぜ避難しなかったのか、いまだに納得のいく説明がないんだから、そう思うのも当然だろう。テチャ川流域の汚染は長く続く。今は一人でも多くのヒバクシャの認定を勝ち取り、私たちの人間としての尊厳を取り戻したい」 夫の言葉にうなずくミーリャさんらの闘いは、まだ緒についたばかりである。 |
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