中国新聞社

99/7/13

ヒロシマの記録-遺影は語る  中島本町Ⅰ


死没者名簿


竹内 タマエ(16)
竹内タマエ 広島陸軍被服支廠(しょう)徴用被服支廠(南区出汐2丁目)へ向かう途中に爆死したとみられる中島本町99番地で「相生橋食堂」を営む叔母夫婦と同居。広島県高田郡吉田町から自転車で捜しに入った父が6日、店跡にあった遺骨を畳表に包み持ち帰る。姉が84年、平和記念公園の原爆供養塔に妹自筆の名札が残る遺骨があるのを知り、引き取る。「今は亡き父も名札を見てようやく納得しました」
大藤 アイ 大藤 アイ(82)
うちみ薬「大藤喜鳳堂」北隣の相生旅館が火事となり、中島本町の自宅2階が延焼したため45年5月ごろ、養女の孫とともに移った牛田町(東区)で被爆。47年11月8日、死去。中島本町で爆死した久保賢一と寿一兄弟の姉。
鳥越 政尾(47)
「さがの」旅館中島本町101番地で爆死したとみられる妻と長男、義母の4人が全滅。いとこ親子が約10日後に、旅館跡で4人とみられる遺骨を収容。(注・全員遺影なし)

妻 フミ(43)
爆死。

長男 嘉一(13)
山陽中1年祖母と父のいとこが住む古田町田方(西区)にいたが、原爆投下の2、3日前に帰宅していた。

義母 早瀬 せき(不明)
爆死。フミの母。

小泉 稲子 小泉 稲子(51)
小児科医中島本町91番地の小児科療院で爆死したとみられる3人。お手伝いも同居していたという。市の41年度防空計画で「防空業務ニ従事スベキ医師」として名前が残る。

おば 明子 おば 明子(51)
爆死。

中野 三保子 めい 中野 三保子(29)
爆死。おばの稲子方に同居して爆心330メートルの広島富国館 (中区袋町)に出勤し、ミシンの使い方を指導していた。

福島 松吉福島 松吉(48)
「福亀」旅館中島本町85番地で爆死その朝一緒にいた妻子と両親、妹の6人家族のうち5人が爆死。山陽中2年の長男は、動員先の桐原容器己斐分工場(西区)で被爆しながら当日、本川に架かる新大橋まで入り、家族を捜す。10日、旅館跡に「生きて牛田(東区)にいる」と立て札を出した。女性従業員2人のほか、宿泊客の1人(近畿電気広島支店長)も旅館で爆死したとみられる。

妻 静子 妻 静子(38)
旅館で爆死。

父 亀次郎 父 亀次郎(75)
旅館斜め前の別宅で爆死。

母 カ子(ね) 母 カ子(ね)(72)
爆死。

妹 芳子 妹 芳子(33)
夫が戦死して実家に戻っていた。亀次郎の五女。

長女 清子 長女 清子(21)
入籍を控えていた夫の実家があった河原町(中区)から勤めに出たらしい。遺骨は不明。

正田 キミ(40)
従業員同僚の「お君」と旅館で爆死したらしい。74歳になる一人娘は「そう思うしかありません。突如消えてしまったのですから」。(注・遺影なし)。

お君 お君(推定38)
従業員爆死

阿戸 周(かね)子 阿戸 周(かね)子(16)
市立第一高女(現・舟入高)4年昼夜4交代で動員されていた日本製鋼所広島工場(南区)が休みとなり、中島本町84番地の医院自宅にいた。ワンピースの切れ端で遺骨を確認弟とお手伝いの3人。両親らは佐伯郡宮内村(廿日市市)の疎開先から通っていた。

弟 晃 弟 晃(13)
崇徳中2年爆心0・8キロの中区八丁堀方面の建物疎開作業に動員され、6日夜、たどり着いた安佐南区の親類宅で「お母さん」とつぶやいて死去。

妹 ハルミ 妹 ハルミ(12)
市立第一高女(現・舟入高)1年宮内村の疎開先から、現在の平和記念公園南側一帯の建物疎開作業に出る。遺骨は不明。市女1年生は277人が死去。

熊野 喜美子(不明)
看護婦町内の国民義勇隊員として勤労奉仕に出たらしい。遺骨は不明。(注・遺影なし)

舩本 治郎一 舩本 治郎一(41)
「吉川」旅館庚午町(西区)の自宅で被爆し、47年5月29日死去。二女は「8月末以降はほぼ寝たきりの状態となり、吐血して亡くなりました」。

赤松 アキ 赤松 アキ(41)
寮母遺骨は不明。44年から憲兵隊の寮になっていた旅館の留守番役を務めていた。広島電鉄家政女学校2年の長女は「8月5日の私の誕生日に、母は『赤飯をたいておくよ』と言いましたが、車掌乗務の仕事と重なり、6日に受け取る予定でした」。
伊木 トシヲ 伊木 トシヲ(37)
「水亭」旅館中島本町88番地で爆死子どもと3人。長男は、爆心2キロの広島工業専門学校(現・広島大工学部、中区千田町)で被爆。9月、母が原爆投下直前まで知人と電話中だったと聞き、壁土を掘り返して遺骨を見つける。女性従業員1人と、宿泊客らの詳細は不明。
吉田 キクノ(56)
「相生亭」経営中島本町87番地の旅館で爆死したとみられる長女と2人。従業員らも爆死したとみられるが、詳細は不明。(注・遺影なし)

長女 清子 長女 清子(17)
実践高女(現・鈴峯女子高)爆死。

岩崎 与一(60)
カフェー「広島会館」中島本町95番地の自宅で爆死したとみられる一家5人が全滅。(注・遺影なし)

妻 オキヨ 妻 オキヨ(37)
生家があった安芸郡音戸町の知人が7日、自宅近くで倒れていたのを見掛ける。「主人も子どもも死んだ。早く姉さんに来てもらって…」と伝えるが、その後の消息は不明。

三男 義俊(26)
教師爆死。(注・遺影なし)

四男 健(9)
爆死。(注・遺影なし)

五男 千城(5)
爆死。(注・遺影なし)

秋田 九一 秋田 九一(59)
遺骨は不明。安芸郡音戸町の疎開先から5日、妻の妹オキヨ宅を夫妻で訪ねて宿泊。6日朝、知人を見舞うため佐伯郡五日市町(佐伯区)に向かったらしい。

妻 ミサト 妻 ミサト(52)
遺骨は不明。

武田 義顕 武田 義顕(37)
証券会社勤務呉の軍需工場に徴用されていたが5日、中島本町 98番地に帰宅したらしい妻子と父の7人が爆死。本川国民学校 (現・本川小)5年の長女は4月、双三郡十日市町(三次市)に学 童疎開していた。「どこで亡くなったのか、それさえも分かりませ ん」

妻 藤枝ら 妻 藤枝(33)=後ろ(左)
建物疎開作業に動員されたらしい。

二女 邦子(8)=手前(左)
本川国民学校3年爆心410メートルの学校に登校したとみら れる。

三女 康(みち)子(6)=手前(右)
本川国民学校1年姉と登校したらしい

長男 博己(3)=後ろ(右)
自宅で爆死したとみられる。

二男 勝次 二男 勝次(生後9カ月)
爆死。

父 国松 父 国松(69)
平和記念公園のレストハウスにあった県燃料配給統制組合に出ていた。

高木 宗雄 高木 宗雄(30)
会社員6日朝、姉の藤枝宅を訪ねて爆死。藤枝の母と妹も河原 町(中区)の自宅で死去した。

廻舩 アキコ 廻舩 アキコ(35)
指圧・鍼灸(しんきゅう)「検校社」自宅座敷跡にあった遺体を7日、佐伯郡井口村(西区)にいた13歳の一人息子が伯父と棺おけをつくり、収容する。「目が不自由な母は、逃げ出すこともできずに座敷で焼け死んだのだと思いました」間借りの軍医夫婦や、住み込みの弟子ら7、8人がいたが、詳細は不明。
亀田 八重子(14)
安芸高女(52年廃校)3年中島本町96番地の建具店跡で、父親が焼けたラジオのそばで遺骨を見つける両親や妹、弟の5人は5日夜、事務所があった佐伯郡五日市町(佐伯区)に出かけて泊まっていた。(注・遺影なし)

弟 昌樹(12)
山陽中1年五日市町の事務所から午前6時ごろ、動員先に向か う。父親が、爆心900メートルの水主町(中区)の与楽園の池で息絶えていた二男をベルトで確認。(注・遺影なし)

高須賀 茂 高須賀 茂(47)
「民衆別館」中島本町100番地の旅館で爆死妻と子の4人のうち、動員先の南区で被爆した二男を除き、爆死近くの広島陸軍病院(中区基町)へ派遣されていた日赤愛媛県支部第717救護班 の看護婦21人が宿泊していた。「日赤愛媛県支部百年史」によると7人が派遣先などで即死し、3人が8月中に、6人が9月中に死去している。

妻 ヨシ子 妻 ヨシ子(43)
爆死。

長男 渉長男 渉(18)
元安川の埋め立て地で倒れていたという。

谷村 ハツミ(37)
従業員己斐町(西区)に母と住んでいたが、徴用で44年から住み込み勤務。妹が後に、ヨシ子の妹から遺体の判別ができず、旅館跡の遺骨をまとめて高須賀家の墓地に納めたと聞く。(注・遺影な し)

松岡 ヨ子 松岡 ヨ子(ねこ)(40)
カフェ―「丁字屋」8人家族のうち6人が爆死。夫は、T字型の相生橋をもじって名付けたカフェ―を営んでいたが、45年3月末に応召となり、本川国民学校5年の二男は双三郡十日市町(三次 市)に学童疎開。

長男 崇ら 長男 崇(17)=左から3人目
山陽中4年泊まり込みの動員先から、荷物疎開を手伝うために帰宅したらしい。

長女 節子(15)=左から2人目
広島女学院高女3年爆心800メートルの八丁堀(中区)にあった広島財務局・広島税務署(現・中国財務局・広島国税局)に動員されていた。学校の記録によると、財務局には生徒約25人が動員 中で半数近くが死去。

三男 淳三(9)=左端
本川国民学校爆死。

二女 悦子(7)=右端
本川国民学校爆死。

三女 睦子 三女 睦子(2)
爆死。

唐崎 エイ 唐崎 エイ(58)
二葉軒撞(どう)球場長男と親類の子の3人が店で爆死したとみられる。

長男 和幸 長男 和幸(14)
本川国民学校高等科爆心直下の細工町(中区大手町1丁目)にあった広島郵便局に動員されていた。

東 須美子 東 須美子(19)=写真
「二葉軒」に5日まで一緒に住んでいた妹らが、店の跡で遺骨を確認。父の次郎(49)は水主町(中区)での建物疎開作業に動員され、弟の義明(17)は兵役でいた広瀬国民学校でそれぞれ被爆し、遺骨は不明。写真左側の建物は「二葉軒」、後ろは「民衆別館」。
死没者の氏名(年齢)
職業被爆死状況1945年8月6日の居住者と、ほかの家族らの被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく(敬称略)

久保田 マサコ 久保田 マサコ(29)=左
カフェー「想い出」中島本町33番地の店入り口跡にあった遺骨を、共同経営の義妹が確認子どもとの3人家族が全滅。戦死した夫の実家がある舟入本町(中区)へ7日移る準備をしていた。義妹は、双三郡十日市町(三次市)に学童疎開していた本川国民学校4年の長男と3年の長女を引き取り育てる。

二男 健治(5)=右
遺骨は不明。

妹 佐々木 君枝(20代前半)
 陸軍被服支廠の事務所があった西練兵場内(中区基町)で被爆したとみられる。姉の遺骨を抱いて舟入本町までたどり着くが、8月末に死去。(注・遺影なし)

梶山 仙齢 梶山 仙齢(49)
浄土宗西山派慈仙寺住職中島本町38番地の本堂裏でまき割りをしていたらしい。跡を掘り返すと、おのと金歯が一緒に見つかる妻子と父、妹夫婦の8人。長女は広島鉄道局(南区)、二女は三菱重工業広島造船所(中区)、三男は中島国民学校(中区)で被爆。ほかに「熊川」家族や単身者が間借りしていたが、詳細は不明。

妻 ヒサエ(40)
洗濯をしていて被爆し、その日に戻った三男と防空壕(ごう)で過ごす。8日、子どもたちに連れられ賀茂郡西条町(東広島市)の傷痍軍人広島療養所(現・国立療養所広島病院)に向かう途中で死去。(注・遺影なし)

父 仙定(77)
 仙齢の長男が46年復員し、祖父の寝間着の切れ端がくっついた遺骨を確認。(注・遺影なし)

妹・満岡 キヌ(57)
爆死。市役所近くの自宅から寺に移っていた。(注・遺影なし)

妹の夫 和知 米造(64)
爆死。(注・遺影なし)

高田 繁 高田 繁(33)
映画館「高千穂館」42年に移った東魚屋町(中区立町)の劇場内で被爆し、安佐郡深川村(安佐北区)の疎開先へ自力でたどり着くが、15日死去大手町(中区)の病院で被爆した三女瑞代(3)は爆死、付き添っていた妻満子(25)は9月3日死去「高千穂館」は、慈仙寺の入り口に1885(明治18)年誕生した寄席「鶴の席」が始まり。1912(明治45)年に活動写真常設館に転じて「喜楽館」、昭和初期に「高千穂館」となり、中島勧商場のにぎわいを支えていた。
渡辺 義太郎 渡辺 義太郎(54)
指物大工中島本町38番地の仕事場跡で遺骨を確認妻と娘の3人。広島女子商業学校(現・広島女子商高)専攻科の三女は、佐伯郡五日市町(佐伯区)に物資を疎開させていた中国塗料に動員され、8日に戻る。「両親が死んでいるとは思えず市内を捜し回りました」。中島国民学校4年の長男は、双三郡三良坂町の光善寺に学童疎開。

妻 イシ 妻 イシ(50)
遺骨は不明。
宮脇 繁代宮脇 繁代(44)
広島家政婦会中島本町37番地で爆死したとみられる娘と3人。長女は、女子挺身隊で出た爆心4・3キロの三菱重工業広島造船所、実践高女(現・鈴峯女子高)4年の二女は、動員先の爆心2・8キロの舟入川口町(中区)にあったゴム工場で被爆。住み込み勤務の家政婦として「ハヤセ」ら3、4人がいたが、詳細は不明。
阿戸 影二(37)
東洋工業(現・マツダ)勤務爆死。体調を崩して中島本町37番地の自宅にいた3人。妻と長男は、妻の実家がある安佐郡緑井村(安佐南区)に向かう途中の横川駅(西区)で被爆。阿戸周子らの叔父。(注・遺影なし)
妻沢 襄 妻沢 襄(たかし)(45)
広瀬国民学校校長爆心1・1キロの広瀬北町(西区)の学校で被爆し、安佐郡祇園町(安佐南区)の実家で20日死去自宅は中島本町37番地。県聾(ろう)学校(現・広島ろう学校)教師の妻は、学童疎開に付き添っていた高田郡吉田町から5日に一時帰宅。「夫は『心配だから』と夕方、家にいた長男を実家に預けたんです」。 遺児2人を育てた妻は、その長男家族に囲まれて94歳になった。
木原 真一 木原 真一(48)
かもじ・化粧品「廿日市屋」爆死。妹に当たる妻沢の妻が高田郡吉田町に向かう6日早朝、七輪をおこしていた兄に声を掛ける中島本通りに面する46番地の店舗の取り壊しが決まり、妹宅に近い通称「慈仙寺鼻」に転居していた。妻と子の6人のうち4人死去。爆心2キロの関西工作所(中区)で被爆した長女は、その日に入った慈仙寺鼻で夜を過ごす。

妻 政子 妻 政子(42)=上
長女が自宅前の路上で、父とみられる遺骨とともに納める。

三男 寛(4)=下
遺骨は不明。

四男 稔(1)
遺骨は不明。(注・遺影なし)

武田 寅夫 武田 寅夫(32)=右
ゴム会社勤務中島本町37番地の自宅跡で、座ったような状態の 遺体を確認母と姉、おいの4人家族が全滅。結婚していた三女が5日、実家を訪ねると、母親は「明日は平良村にゆく」と伝えたという。佐伯郡平良村(廿日市市)は中島本町住民の避難先に決められており、荷物を疎開させていた世帯も多かった。

母 きみ代 母 きみ代(67)
自宅台所跡で、手首だけが焼けていない状態で見つかる。

姉 喜美子(37)=左
爆死。一人息子を連れて実家で暮らしていた。

おい 良樹 おい 良樹(7)
階段跡付近で、小さな骨が見つかる。

長田 豊一(57)
「向井漆器店」番頭中島本町37番地の借家跡で遺骨を確認佐伯郡五日市町(佐伯区)の自宅から5日、妻とめいの3人で戻り泊まっていた。(注・遺影なし)

妻 ヨシノ(48)
爆死。(注・遺影なし)

めい 下田 末子 めい 下田 末子(12)
中島国民学校6年爆死。姉は「妹とは幼いころから別れて大きくなりました。45年5月ごろ、2人で中島本町の映画館に行き、妹のはしゃぐ姿を見たのが最初で最後の出会いでした」。

宮脇 幸治 宮脇 幸治(66)
公証人・元広島地裁判事中島本町36番地の自宅で爆死。焼け残っていた着物の柄から遺骨を確認妻と子の4人。勤務先の三菱工作機械広島製作所(安佐南区)から駆け付けた三男と、能美島(佐伯郡)への食糧買い出しから戻った長女が庭に穴を掘り、遺体を埋葬。

妻 菊代 妻 菊代(61)
子どもたちや能美島出身のお手伝いが捜すが、遺骨は不明。
頼政 タキノ 頼政 タキノ(60)
遺骨は不明。二女がいた郷里の山県郡本地村(千代田町)へ行く途中で被爆したらしい夫が病死し、中島本町32番地の1で印判店を営む妹のユクノ夫婦を頼り、慈仙寺鼻に転居していた。
叶丸 玉代 叶丸 玉代(40)
中島本町37番地の自宅で爆死。遺骨は不明夫と子どもの3人。アユ漁が専門の夫は郷里の山県郡安野村(加計町)から戻る途中の安佐郡祇園町(安佐南区)で被爆。

二男 寛 二男 寛(18)
東洋工業(現・マツダ)勤務遺骨は不明。

久保 賢一 久保 賢一(58)
お茶販売爆死。横町(中区大手町2丁目)の自宅が建物疎開となり、慈仙寺鼻の借家に転居していた。妻と2人。「久保清風軒」の寿一(爆死)は弟。

妻 コナオ 妻 コナオ(59)
爆死。

田中 作一 田中 作一(55)
三和銀行勤務中島本町37番地の自宅で爆死したとみられる妻と子の4人。安田高女2年の三女は動員先の西区で被爆。

妻 ヨシミ 妻 ヨシミ(48)
爆死。

長男 勲 長男 勲(9)
本川国民学校4年遺骨は不明。爆心410メートルに位置した学校は、登校児童約400人らが犠牲となる。

冨田 早吉 冨田 早吉(72)(右)
冨田履物商店遺骨は不明。6日午前7時半ごろ、中島本町43番地の自宅縁台に座っていたのを知人が目撃。9日夜、兵役で福岡県にいた五男が捜しに戻り、その目撃談を聞く妻と五男の妻の3人が爆死。

妻 サイ(67)(左)
炊事場跡で家の下敷きになっていた。

五男の妻 冨美子 五男の妻 冨美子(21)
夫が71年、無縁仏を納める平和記念公園の原爆供養塔に遺骨があるのを知る。遺骨箱には名前と「8月7日本川国民学校で死去」。夫妻は45年1月に結婚し、その2カ月後に夫は召集された。
田中 ヌイ 田中 ヌイ(58)
洋裁指導中島本町43番地の自宅で爆死長女と2人。兵役中の呉から7日に入市被爆し、3年前亡くなった二男は「七月十七日無理に休暇をいただき帰郷せり(略)母妹は鯛(タイ)を食膳に供し、ドーナツ、蜜(みつ)豆、ぜんざい、飴(あめ)湯、すし等(など)歓待せり」と、親子4人家族の最後の水入らずを日誌に書き残していた。

長女 住田 節子 長女 住田 節子(22)
母と爆死。

夫 倫起 夫 倫起(ともおき)(64)
原爆投下後、郷里の島根県から戻り、妻と娘を捜して10月22日死去。

世並 ツ子(ね)ヨ 世並 ツ子(ね)ヨ(39)
飲食店経営爆死母と子ども、義妹とめいの計7人が全滅。夫は46年沖縄から復員。戦後に結婚した妻が、18年前亡くなった夫に代わり、旧住民による慰霊法要に出席する。「原爆の子の像のちょっと先に家があり、皆そこで一緒に死んだのだろうと言っていました」

長女 澄子 長女 澄子(18)
遺骨は不明。

長男 一幸 長男 一幸(14)
広陵中遺骨は不明。記録によると、1・2年生は爆心1・8キロの鶴見橋一帯の建物疎開作業に動員されていた。

二男 一志 二男 一志(4)
母らと爆死。

母 財間 ウタ(64)
爆死。(注・遺影なし)

義妹 三戸 雪子(28)
爆死。夫が戦死したため、安佐郡祇園町(安佐南区)の嫁ぎ先から子どもを連れて戻っていた。(注・遺影なし)

長女 良子(2)
爆死。(注・遺影なし)

金元 次四郎 金元 次四郎(44)=右端
呉服店爆死中島本町43番地の自宅台所跡で、お膳(ぜん)を囲むような格好の4体の遺骨が見つかる。45年10月に朝鮮半島から復員した17歳の長男が1人残る。

妻 ミツコ(37)=左端
爆死。

二男 誠(14)=左から3人目
修道中爆死。

三男 優明(5)
爆死。=左から2人目

西村数人(43)
歯科医開業していた沖縄・宮古島の戦火が激しくなり、中島本町18番地の熊谷歯科の跡に移る。遺骨は不明妻と2人。(注・遺影なし)

妻 ミサノ(35)
爆死。遺骨は不明。(注・遺影なし)

姉 出雲タミノ 姉 出雲タミノ(51)
矢賀町(東区)の自宅から弟の西村宅を訪ねて爆死。遺骨は不明。



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