ヒロシマの記録−遺影は語る |
99/07/13
◆ 死没者名簿(続) ◆
1945年8月6日の中島本通り=A平和記念公園の北側部分(177KB) |
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広島は、西中国山地を源流とする太田川の支流に広がり、16世紀の築城以来「水の都」として続いてきた。広島藩府の「知新集」はこうつづる。「元安川と本川との間にあるをもて中島と名つく」。古くからデルタ広島の中心をなした街が「中島本町」である。現在は平和記念公園(12・2ヘクタール)となる。
樹木が生い茂る公園の北西一角に「平和乃観音」と刻んだ青銅の慰霊像が建つ。そばの石碑には「嗚呼(ああ)中島本町の跡」とあり、「この地は明治・大正・昭和の初期広島で最も繁華の中心であった/昭和20年8月6日原爆一閃(せん)町民全員一瞬にして悲惨なる最後を遂げたり」と、いわれを記す。旧住民らでつくる「中島平和観音会」が1956(昭和31)年に設けた。 中島本町は、広島の市制より七年早い1882(明治15)年に初の集産場、10年後には、公園内を今も貫く旧山陽道の北側に勧商場ができる。常設映画館もこの街で初めて開館し、広島の商業・文化の中心地として発展していった。 人々がそぞろ歩く「中島本通り」沿いは、大正に入るとスズラン灯が夜をほんのり染め、日本髪の女性がビールを給仕するカフェー、料亭、縄のれんが、慈仙寺の入り口から相生橋へと続いた。勧商場で両親が玩具(がんぐ)店を営んでいた立野貞代さん(80)は言う。「人力車に乗った芸者衆をよく見掛けたものです。子どもの目にも粋(いき)でモダンな街でした」 盛り場だった中島本町を、さらに目立たせたのがT字型の相生橋である。1934(昭和9)年、市内電車併用橋として架け替えられ、橋げたはデルタの鼻先、通称「慈仙寺鼻」へ伸びた。そのT字型が、原爆投下の目標にされた。原爆投下機エノラ・ゲイの機長は相生橋を「完ぺきな照準点」と呼んだ。橋の北向こうには、中国軍管区司令部などの軍事施設が密集していた。 45年8月6日、原子爆弾は、相生橋の南東300メートル、上空580メートルで爆発した。3000度を超えた火の球が地上をのみ込み、爆風と放射線が襲った。米戦略爆撃調査団が46年6月に作成した報告書は、爆発直下である「地上ゼロ地点に近い地域では熱は死体を原形にとどめぬほどに炭化させた」と表す。中島本町は、街全体が爆心から400メートルにすっぽり入っていた。 「生き残れる有志相集って平和観音像を建立し永遠にその霊を慰む」。遺族や旧住民は、像に続いて73年に「死没者芳名」碑を建立した。現在、425人(うち姓のみ8人、名前のみ1人、愛称名3人、重複1人)が刻まれる。この犠牲者名簿を基に、あらためて関係者を捜し訪ね、一人ひとりの「8月6日」を追った。 「あの日」から54年の歳月は、遺族の世代交代を押し進め、被爆体験の継承は身内でさえ薄まっていた。人間を跡形なく消し去った原爆が、受け継ぐべき記憶を持たせないほどのものであり、被爆の実態がいまだ解明されていないことを示す。それでも、全国に散らばる遺族関係者の多くは、家族や親族の「空白」を埋めようと、死没者たちの記録と遺影を寄せた。 旧中島本通りから相生橋にかけての北側一帯に居住、勤務し45年末までに亡くなった255人と、原爆後障害による59年までの4人の計259 人の被爆死状況が判明し、うち188人の遺影の提供と確認を得た。併せて、高度580メートルから撮った平和記念公園に「中島本町」の北側一帯を重ね合わせて復元図を作成した。 原爆の「完ぺきな照準点」の下にはその瞬間まで、人の暮らしと街並みが息づいていた。 (西本雅実、野島正徳、藤村潤平) |