久保 寿一(58)(右)
茶道具販売「清風軒」▼中島本町32番地の2の店先で、歯形によ
り遺骨を確認▼高田郡船佐村(高宮町)に学童疎開していた三男は「母がいた牛田町(東区)の疎開先に週末は帰るはずが、知人宅の建物疎開を手伝うため、中島にとどまっていたようです」
二男 恒男(29)(中)
遺骨は不明。
二男の妻 弘子(23)
モンペの下に携えていたがま口で遺骨を確認。(注・遺影なし)
二女 昌子(21)(左)
広島陸軍病院勤務▼遺骨は不明。町内の松野大尉(爆死)の紹介で病院主計課に勤めていた。
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久保 秀夫(56)
漆器卸「大本商店」▼中島本町32番地の6の自宅から、元安川につけていた所有の小舟を見に行き、己斐国民学校(西区)の救護所で6日死去。遺骨は不明▼妻と子の5人。旭兵器製作所の地御前工場(廿日市市)に動員されていた実践高女2年の三女が8日、自宅跡で父の収容先を聞く。「意識があったと言われ、生きて会えると捜しましたが、結局見つけることはできませんでした」
妻 喜久枝(47)
爆死。三女は「母は蔵の前で黒焦げになっており、頭部は池に落ちていました。周りの木切れを拾い集めて焼きました」。(注・遺影なし)
長女 金子 利子(25)
屋根がわらの下にあった遺骨を納める。夫が応召となり、同居していた。
二女 冨美子(19)
帝国銀行(現・さくら銀行)広島支店勤務▼爆心360メートル、現在は広島アンデルセンとなった革屋町(中区本通)の支店に出勤し、遺骨は不明。
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上村 艶子(37)
亀田屋楽器店。てるてる食堂▼中島本町32番地の1の自宅で爆死したとみられる。4人目の子どもがおなかにいた。遺骨は不明▼夫と長女の3人。夫は、配給統制で中島地区の食堂10数軒が集まり、44年ごろ開いた切符制による配給食堂の経営に参加。(注・遺影なし)
長女 典子(4)
遺骨は不明。
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沢村 軍蔵(57)
沢村印刷店▼勧商場入り口で39年ごろ、印刷店を開業。自宅は舟入本町224番地。6日は町内から本川地区(中区)の建物疎開作業に出て、10日に死去。
妻 シヅコ(50)
爆心1・5キロの自宅で焼死したとみられる。遺骨は不明。
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矢野 源一(32)
矢野靴店▼中島本町27番地の2の自宅で爆死▼妻子との5人家族のうち、祖母がいた高田郡向原町に疎開していた3歳の長男を除き、死去。埼玉県川口市で健在の長男は「家族の写真すら残っていません」。
妻 コユキ(27)
夫のそばで遺骨が見つかる。
長女 千鶴子(14)
進徳高女3年▼爆心1・6キロの広島貯金支局(中区千田町)に
動員されていた。遺骨は不明。
二男 賢二郎(生後9カ月)
遺骨は不明。
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唐川 新太郎(55)
唐川自転車商会▼自宅は中島本町27番地。爆心直下の細工町(中区大手町1丁目)の島病院に入院していた。遺骨は不明▼妻と長男の5人。妻は、衣類を疎開させていた安佐郡緑井村(安佐南区)を訪ねて戻る途中だった。
長男 平八郎(3)
遺骨は不明。
長女 黒田 冨美代(27)
夫が戦死し、実家に同居していたらしい。遺骨は不明。
二女 福島 朝子(20)
新婚先から自宅に戻り、平八郎の子守をしていたらしい。遺骨は不明。(注・遺影なし)
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三宅 隼作(59)(右)
三宅薬局▼爆死。自宅は中島本町27番地▼妻と子の4人が死去。双三郡三良坂町に学童疎開していた中島国民学校6年の一人息子は「お寺に兵庫県から迎えに来た叔父と自宅跡のかわらを掘り返し、骨を拾いました。正直思い出したくないし、今も忘れたい気持ちです」。30代の石川、10代の福島という名の男性店員3人と、お手伝いの女性1人が働いていたが、詳細は不明。
妻 皐月(34)(左)
爆死。
二女 千歳(22)
大阪薬専(現・大阪大薬学部)在学▼夏休みで帰省していたらしい。(注・遺影なし)
三女 美枝(19)
広島鉄道局勤務▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
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浜内 一枝(31)
浜内金物店▼夫の実家があった能美島(佐伯郡)から5日、中島本町27番地に帰宅。兄弟が自宅跡で遺骨を確認▼娘と2人。夫はビルマ(現・ミャンマー)から復員し、中島本町で金物店を再開し、58年ごろ神戸に転居。
長女 敬子(7)
中島国民学校2年▼爆死。父は戦後に再婚し、生まれた長女に「けい子」と名付ける。神戸市に住む娘は「亡き父と8月6日の灯ろう流しに何度か参加しました」。
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藤井 順一(61)
藤井商事▼移住したハワイから戻り38年、現在の中区中島町1番地にあった元住友銀行広島支店を購入し、日本食や雑貨輸出を手掛ける。町内会長を務めていた中島本町の南隣、材木町22番地の自宅で爆死。
二男 春雄(28)
材木町の「山本自転車修理」に出かけて爆死。
二男の妻 ツヤ子(25)
中島本町の別宅で被爆し、佐伯郡五日市町(佐伯区)まで逃げて14日死去。
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滝宮 純一郎(63)
古物商▼中島本町18番地の自宅西隣の「槙野」(詳細は不明)宅で、囲碁をしていたらしい。17歳の二男が8日、ほとんど灰になっていた2人の遺骨を納めて紙に包む▼妻と子の4人。松本工業学校(現・瀬戸内高)1年の三男は、動員先の爆心1・8キロの比治山橋(南区)で被爆し、12日、廿日市国民学校の救護所で兄と再会。
妻 ハナ(49)
自宅台所跡で遺骨を確認。
二女 美智子(20)
八丁堀(中区)で被爆し、遺骨は不明。
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藤岡 ミツヱ(28)
遺骨は不明▼中島本町43番地の1の三井生命広島支店・支社に、家族で住み込み勤務し、夫が応召後もいたらしい▼女性社員が85年に自費出版した史誌は「部長と社員8人が死亡」と記述。廿日市市の正覚院にある会社の慰霊碑は「山中八重子」「山中シゲ」の名前を刻み、いずれも「昭和20年8月31日戦災死」とあるが、詳細は不明。(注・遺影なし)
長女 嬉子(2カ月)
爆死。遺骨は不明。(注・遺影なし)
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景山 清美(34)
広島西消防署消防手▼広瀬北町(中区)の自宅から、中島本町18番地の広島西消防署中島出張所へ出勤途中に被爆し、7日から救護活動に従事。9月5日、妻がいた山県郡豊平町で死去。83歳になる妻は「枕元から跡継ぎができたと喜んでいました…」。長男は46年7月15日病死。
広島西消防署消防手、河原作一(36)▼同、木村三吾(27)▼同、満野年秋(17)=中島出張所で爆死▼同、仲川辰男(17)=出張所で被爆し、8月14日死去▼同曹長、長門檪(40)=非番となり、帰宅途中に被爆して8月死去。
呉消防署派遣消防士補、弓場正一(41)▼同曹長、友澤義任(37)▼同消防手、岡本義昭(18)=中島出張所で爆死▼同、永元昭三(不明)=呉市へ運ばれた直後に死去。以上は「原爆広島消防史(75年刊)から。
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綿貫 満寿子(57)
呉服「ほうねんや」▼中島本町14番地。町内の婦人会長として建物疎開作業に出たらしい。遺骨は不明▼長男夫婦家族との7人。
長男の妻 壽子(41)
3歳の長男と1つの長女を連れて寺町(中区)に墓参りをしていて被爆。肝臓がんで59年12月1日死去。
三女 秀子(19)
芸備銀行(現・広島銀行)勤務▼兄が、自宅軒下で炭状になった小さな遺体を妹と判断。前日の5日に見合いをしたばかりだった。
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山本 久子(19)
千代田生命勤務▼伯母と泊まりがけで訪ねた佐伯郡平良村(廿日市市)の知人宅から、爆心130メートルの職場(中区紙屋町2丁目)か、職域義勇隊として建物疎開に出たまま行方不明。自宅は日本簡易火災保険広島支店の東隣。
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中山 熊治郎(38)
植木師▼中島本町48番地の自宅で被爆し、妻子3人の遺骨を己斐方面(西区)の知人宅に預けて14日、佐伯郡廿日市町(廿日市市)486番地の5の廿日市臨時救護所で死去。遺骨は不明▼双三郡三良坂町の学童疎開先から戻った、中島国民学校5年の長男が爆死した家族全員の死亡報告書を出す。「広島を離れた後、再訪したのは19年後でした」
妻 八重子(30)
自宅で爆死。
二男 稔(6)
母とともに爆死。
長女 美栄子(1)
母や兄と爆死。(注・遺影なし)
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荒川 案山子(かかし)=(44)
日本簡易火災保険(現・富士火災海上保険)広島支店長▼中島本町11番地の支店か、支店裏の社宅で爆死したとみられる▼6人家族が久しぶりに顔をそろえた朝、妻は三男を連れて食糧の買い出しに行った新庄町(西区)で被爆。山陽中4年の長男は、住み込み動員先の呉海軍工廠に。「鉄筋2階建ての外郭だけが残っていました」
長女 小香子(14)(右)
広島女学院高女3年▼八丁堀(中区)の広島財務局・広島税務署に動員されていた。遺骨は不明。
二男 薫(11)(左)
本川国民学校6年▼爆死。双三郡十日市町(三次市)に学童疎開していたが、体調を崩して帰宅していた。
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丸川 次郎(52)
広島支店会計課長▼己斐町(西区)の自宅から出勤した支店で爆死したらしい。遺骨は不明。同居していた中国海軍監督官事務所(中区大手町2丁目)勤務の長男の妻ひで(22)も爆死。
国弘 節子(19)
広島支店社員▼出勤直後に被爆し、本川につかっているところを助けられ、平塚町(中区)の親類宅へ。母親に「お兄ちゃんにお嫁さんが来たら仲良くやってね」と言い残し、24日死去。
上山喜久次郎(25)▼真鍋初子(24)▼世良コトマ(25)▼山下富子(23)▼林富枝(24)▼岡野里子(22)▼渡部秀清(54)▼竹内勘一(57)▼内田勝吉(49)▼長守幾太郎(71)▼山野長次(45)=「広島損害保険史」(56年刊)によると、広島支店勤務者17人のうち14人が被爆死した。
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佐野 幸子(34)
株式会社佐野商店▼遺骨は不明。自宅は中島本町8番地▼4人。紙問屋を営む夫と修道中4年の長男は、三菱重工業広島造船所で被爆。長男は午後3時すぎ、新大橋(現・西平和大橋)そばの水道管を伝って自宅跡付近に入る。「ゲートルを巻き、軍靴を履いていたので『兵隊さん。水を』と何度も求められました。火が見えないほどかんかん照りで、暗くなって周りが火の海だと気付きました」
長女 喜久江(13)
市立第一高女(現・舟入高)2年▼遺骨は不明。平和記念公園南側の建物疎開作業に動員された市女1・2年生は541人が死去。
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土屋 房夫(40)
土屋時計店▼本川橋東詰め中島本町5番地の自宅か、中島本通り斜め前の店で爆死▼妻と子の7人のうち5人が死去。長男は、広島憲兵分隊がいた爆心760メートル、鉄筋3階建ての光道国民学校(廃校)に動員されて被爆したが助かる。「中島本町で開かれる8月6日の平和式典に出たことはありません」。(注・全員遺影なし)
妻 キヌ(42)
爆死。
二男 重司(12)
中島国民学校6年▼爆死。
四男 輝夫(5)
爆死。
五男 和之(2)
爆死。
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高木 茂(57)(左)
弁護士▼45年5月発足し、専務を務める市信用組合本部(現・広島信用金庫)へ中島本町官有7番地の自宅から出勤しようとしていたらしい▼妻と2人。長男が、玄関前跡で両親とみられる遺骨を確認。
妻 シケ(51)(右)
爆死。
長男 一郎(36)
原爆投下後、生家の安佐郡安村(安佐南区)から中島本町へ向かい、脱毛や出血など急性放射線障害を患う。戦後、安村村長を務めたが50年4月13日死去。
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小野川 明子(17)
安芸高女(52年廃校)▼中島本町18番地の「てんぐ本店」跡を借りて住んでいたが、安佐郡亀山村(安佐北区)へ疎開。動員先に向かう市内電車の中で被爆。祖母らが見つけるが、15日死去。
妹 鐘子(15)
山中高女(現・広島大付属福山高)3年▼風邪をひいて猿楽町39番地(中区大手町)の叔母宅で爆死したとみられる。山中高女の記録「追悼記」によると、3年生は天満町(西区)の三宅製針工場に動員されていた。
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竹永 辰次郎(40)(左)
二重焼きまんじゅう「東京堂」▼遺骨は不明▼44年に応召となり、店は閉店。軍の公務で東京から4日、材木町17番地に帰宅していた。
妻 ハギノ(41)(右)
夫の帰郷を聞き、疎開していた佐伯郡平良村(廿日市市)から自宅に戻る。遺骨は不明。
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下川 徳松(70)
うどん「中善」▼遺骨は不明。中島本町の自宅から毎朝、富士見町(中区)のおい宅を訪ねるのが日課だった▼一人暮らし。高田郡吉田町から捜しに入った孫娘は「店の炊事場跡に散らばっていたタイルのかけらを持って帰りました」。
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惣田 ツ子(ね)コ(30)
「三国屋」食堂▼父の郷里の佐伯郡三高村(沖美町)にいたが5日、歯科医に行く妹と戻り、爆死。遺骨は不明。妹は「姉から『あなたには子どもがいるのだから』と言われ、その日のうちに帰りました。元安橋のたもとで、手を振って送ってくれた姿を思い出します」。
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