中国新聞社


非核の思い国際法廷へ − 未収録の一節 '98/8/4 原爆体験記
 幅員百メートル、長さ四キロ。広島市の象徴、平和大通りは五つの橋で結ばれ、デルタを貫く。東端の鶴見橋の一帯は「八月六日」、市民や学徒が家屋疎開作業に動員されていた。爆心から一・七キロ。北山二葉さん=当時(33)=もいた。被爆五年後に記し、市公文書館にある「原爆体験記」の原文から。

photo
北山二葉さんが「落下傘」を見た鶴見橋に立つ長女の黒河直子さん。「母は原爆の話はよほどのことがなければ口にしませんでした」
 橋を渡って三十米(メートル)も歩いた頃(ころ)、急に飛行機の爆音がひどく鮮明に聞こえて来た(中略)何処(どこ)かで「落下傘だよ。落下傘が落ちてくる」という声がした。私は思わずその人の指差す方を向いた途端である。自分の向いていた方の空が、パアッと光った。

 「落下傘」は、B29爆撃機エノラ・ゲイから投下された原爆に続き、同行のグレート・アーチストが落とした三個の計器類についていたパラシュート。原爆の威力を観測するためであった。搭乗員の証言によると、原爆投下から閃(せん)光まで少なくとも四十三秒。瞬く間に広島は壊滅した。

 閃光浴び死を覚悟

 「夫を失い、死ぬまでケロイドが消えず…。女としてどんなにか…」。北山さんの長女で西区高須三丁目に住む黒河直子さん(66)は、原文十六枚に続く母の直筆をじっと見つめた。閃光を浴びた北山さんは死を覚悟したとつづって―。

 その時、急に私は田舎に疎開して行った三人の子の顔がはっきりと目に浮かんだ(中略)「死んではならないのだ。子供たちをどうするのだ。夫も死んでいるかも知れない。逃げられる丈(だけ)は逃げなければ」(中略)ぬぐった顔の皮膚がズルッとはがれた感じにハッとした。

 当時十三歳の黒河さんが「お母ちゃん」と、神杉村(三次市)の親類宅にたどり着いた母にすがりついたのは八日。その二日後、父一男さん=当時(40)=が運ばれる。中国新聞社業務局次長として、在広の新聞・通信社の勤務者たちでつくる国民義勇隊を率い、県庁周辺の疎開跡片付けに出ていた。十三日、ひん死の妻と子どもたちの身を安じながら息を引き取る。

 恨みごと語らぬ母

 「母は昔かたぎの人で恨みつらみは言いませんでしたが、自分を納得させるために書いたと思います。本に載っていない部分に、母の訴えがあったのでは…」

 北山さんの一編は、占領下の一九五〇年に出た「原爆体験記」十八編に採用された。その後、十一編を加えて再出版され、今も刊行が続く増補版でも「原文のまま」とうたいながら、次の最後の一節が未収録になっている。

 耳をすませば何処からか二十万の慟哭(どうこく)が聞こえて来るような気がする。国際情勢のひっ迫した今日、願わくは、原爆の犠牲により平和のために散った尊い二十万の命が決して無駄でなかった事が世界中に示されるように―

 「二五・七・一」と執筆時を記した六日前、朝鮮戦争が起きている。北山さんは過酷な体験を通じて、二度と原爆が使用されてはならないと叫ばずにいられなかった。黒河さんは「当時にすれば反戦的なことを書いて周りに迷惑が掛からなければいいが…と弟に言っていた」と振り返る。

 市長が一部を引用

 亡き夫の会社に職を得て、一女二男を育て上げた北山さんは八〇年、六十八歳で他界した。その体験記は九五年、職場で机を並べた平岡敬広島市長(70)が国際司法裁判所(ICJ)の陳述で一部を引き、鶴見橋で被爆した多くの市民をはじめヒロシマの願いを明快に訴えた。

 「核兵器の使用、また開発・保有・実験も国際法に反するものです」

53年後の訴え
 
(4)

MENUNEXT