中国新聞社


未来へリレーを託す − 動員学徒 '98/8/5 原爆体験記
 広島市が一九五〇年に初めて募集した「原爆体験記」。被爆時に児童・生徒だったのは八十四人。学徒動員中に遭ったとみられる記録は、学生を含めて十五人を数える。

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「雪山」をモチーフに、平和への思いを込めて創作活動を続ける前田さん
(広島市西区の自宅アトリエ)
 目の前に生き地獄

 西区古江東町に住む前田典生さん(67)は、食糧確保のため、広島駅北側に広がる東練兵場に開墾された芋畑に出ていた。県立広島二中(観音高)の二年生。午前八時すぎ、「集合」の掛け声が掛かった。爆心から二・五キロ。

 突然聞き慣れたかん高い金属性の爆音が聞こえた。教官の所にはたくさん集まっていたが、みんなそのままの姿勢で空を仰いだ(中略)その時B29のずうずうしいばかりのあの巨体を見つけた。その瞬間全然記憶がないが兎(と)に角ぶったおれていた(中略)ふと目を開けて見ると眼前は真黄色である。

 十四歳の前田少年は首の表皮を焼かれながら、火の手をついて級友と、旧宇品線沿いに南区の比治山から中区の広島文理科大わきを抜け、西区にあった二中へ。「生き地獄」としか表しようのない世界を歩く。

 人は全身火傷で虫の息である。中には水槽の中へ入ってもだえている。又(また)水を欲して大きな声で叫んで居る(中略)(こと)に橋の根もとに来たら、重傷者や死んだ人がごろごろと重なり合ってころがっている(中略)帽子をかぶっていた人は鉄冑(よろい)をかぶっているかの如(ごと)く、そこだけが焼け残ってあとは真っ赤である。

 空白の学籍簿作成

 「原爆の体験を生徒の前で話すのは、初めのころは涙が出てしまって…」。前田さんは美術教師となり、六年前に校長で退職した南区の翠町中では十四年間、平和教育に取り組んだ。

 翠町中は、前身の第三国民学校に通っていた生徒ら約二百十人が、建物疎開作業などに出て死去したと言われる。現役の生徒たちが被爆の実態を聞き取り調査した「空白の学籍簿」作成や、今も続くナガサキ修学旅行による被爆地同士の生徒交流を推し進めた。東京・大阪の生徒たちとも、互いの都市の戦争体験を加害の問題を含めて学び合う。

 消えぬ後ろめたさ

 それでも「八月六日のことを口にするのは個人的にはためらいを覚える」と言う。母校の広島二中は、一年生三百二十数人が爆心地近くの家屋疎開作業に出て全滅した。前日の振り分けで、二年生は東練兵場となった。「我々の身代わりになった後ろめたさが消えない」。学徒世代の複雑な胸のうちをのぞかせる。

 原爆忌は毎年、平和記念公園の本川左岸に建つ広島二中の慰霊碑前での慰霊祭に参列し、南手にある広島県職員原爆犠牲者慰霊碑にも参る。県立広島一中(国泰寺高)教諭だった父の秀雄さん=当時(39)=は生徒を引率して中区で被爆し、十三日死去した。

 「国民の大半が戦争を『聖戦』と思わされ、自分たちも思ってしまった。それが本当に怖い。戦争が核兵器使用につながることを、インド・パキスタンだけでなく世界中に訴えていくべきだと思う」。そのために、次の世代がヒロシマ・ナガサキの実態を学び、二十一世紀に向けてリレーすることを願う。「原爆体験記」が公開され、活用されることを望む。

◇ ◇ ◇

 占領下に刊行された「原爆体験記」の「刊行のことば」はこう結ばれる。「天来の平和の訴えとして人の子の耳を傾けさせないであろうか」。全百六十五編のうち、百三十六編が今も未公開のままである。

おわり

 (報道部・西本雅実)
53年後の訴え
 
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