ヒロシマの世界化 説く − 先駆者 | '98/8/3 |
広島市に残る全百六十五編の「原爆体験記」には、島本正次郎さんの一編もある。募集に応じた六年後の一九五六年、被爆者援護法制定を国会に初めて請願した一人。先駆者による十六枚の原稿は、爆心一キロの理髪店兼自宅で遭った「八月六日」を日記体で再現する。十一人の子宝に恵まれ、当時五十八歳だった。
4人の子供を失う 光康さんは九日後、皆実さんは三十四日後、家族を探すため山口から戻った長男は三年後に三十一歳の若さで死去。島本さんは、戦死の二男を含め四人の子どもを失った。 それだけではない。兄として理髪を仕込んだ弟の秀吉さんと、徳三郎さん一家五人は、原爆ドームと呼ばれるようになる県産業奨励館そばで被爆し、死去した。 被爆者の会を創設 尚武さんが言う。「大勢の身内を奪われ、おやじは『米国やトルーマンに、まどうてくれ、もらわんといけん』が口ぐせでした」 「まどうてくれ」は、広島弁で「元通りにしろ」の意。親を、子どもを、本来の体を返せという悲痛な叫びから、被爆者運動は興る。占領が明けた五二年、島本さんも参加した「原爆被害者の会」が、四年後の日本被団協発足につながり、初代事務局長藤居平一さん(九六年死去)がスローガンに据えて、援護法制定への険しく長い道のりが始まる。 島本さんの体験記は、最後に今でいうヒロシマの世界化を説いている。墨で書いた執筆時は「昭和二十五年六月三十日」。朝鮮戦争勃発の五日後である。 トルーマン大統領の如(ごと)きも世界人類のためなら再び、原爆使用を辞せずと言っている様に(略)のどもと過ぐれば熱さを忘れるという事があるが、原爆の跡をなるべく保存する様にすべし。産業奨励館が一ツ記念に残されるだけでは駄目であると私は信じる。 遺志宿る石こう像 島本さんは七八年、九十二歳の生涯を全うした。息子三人と孫が跡を継ぐ店には、一つの石こう像が飾られる。スイスの民衆教育家ペスタロッチーの精神をたたえ、広島大が五五年に設けた今の「ペスタロッチー教育賞」の第一回受賞者となった。
「原爆で困っている者を助けんといけんが、おやじらの運動の始まり。いまだに核兵器を持ち、実験する国があるのは本当にけしからんですよね」。原爆ドームの絵も飾る店で、兄弟は怒りを表した。
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