姿なき世界へ行動促す − 聴覚を失って | '98/8/2 |
広島市安佐北区安佐町の自宅で、前田英雄さん(77)は、耳が聞こえない妻の鈴江さん(75)に代わって切り出した。 「自分だけが助かりたいから母親を置いて逃げたんじゃない。本当にあったことを分かってもらいたいと書いたそうです」。英雄さんがボールペンを取って説明した内容を走り書きすると、小柄な鈴江さんは大きくうなずいた。
両親と三人家族。爆心地一・三キロの中区加古町の自宅で母と下敷きになった。佐々木鈴江さんの手になる八枚の「原爆体験記」は、倒壊した家屋からはい出し、「お母さん何処(どこ)」と叫んで必死に探した様子がつづられる。 瓦(かわら)を一枚ずつはがしてみたけれども火の手は益々(ますます)強くなる一方でした。(中略)自分一人ではどうする事も出来なくなり(中略)「お母さんすぐ助けに来てあげるから待っててね」と言いながら、心の中では「許してお母さん。さようなら」と手を合わして、一歩又(また)一歩放心した様に土手の方へ歩きました。激しく悲しむ気力もなく…。 母操さん=当時(42)=は遺骨で見つけたが、家屋疎開作業に出た父繁人さん=(52)=は行方不明のまま。鈴江さんは、広島市が夏になると公開する引き取り手のない原爆供養塔納骨名簿を頼りに今も探す。「せめてどこで死んだか知りたい」と、居間の仏壇に目をや った。 40歳すぎ自覚症状 元国鉄(JR)職員の英雄さんは、大竹市の玖波駅で、運ばれて来た被災者の救護に当たった。「家内ら直接原爆に遭った人のことを考えると…」。資格はありながら、被爆者健康手帳の申請はあえてしていない。鈴江さんとは知人の紹介で四六年に結婚した。 鈴江さんは、脱毛など被爆の急性障害から回復後は、とりたてて健康の不安を覚えなかった。一男一女をもうけた。しかし、四十歳を超えて耳鳴りに襲われ、五十歳になるころには聴力を失う。「耳鼻科の先生も原爆の後遺症だろうと言いますが、診断書には直接書いてくれんのです」と英雄さん。 夫妻が会話を交わすのに紙とペンが必携になって四半世紀になる。東京と広島の子どもたち家族とはファクスで連絡する。鈴江さんは自宅で書をたしなみ、英雄さんの運転で買い物がてらのドライブを楽しむ。そして新聞に目を凝らす。 被爆の風化を憂う 「インド・パキスタンは核実験をした後は、どんな結果を国民に知らせとるんですか?」「私らが死んだら『原爆があったそうな』くらいしか残らんようになるのでは」。核兵器やヒロシマへの考えを尋ねると、逆に質問を交えて胸につかえる思いのたけを述べた。 「核兵器の廃絶は政治しだいだと思います。日本の政治家が何も言わんかったら、私らは原爆のモルモットにされただけになる」。被爆の風化を憂い、何より行動を促し求めた。 鈴江さんの未発表の体験記は、原爆の話題が半ばタブーとされていた占領下の五〇年六月、朝鮮戦争勃発直後に書かれた。
世界中が不安な気配がただよっているようですが、何とかして食い止める事は出来ないものかと、いつも願って居(お)ります。(中略)世界中の者が恐ろしい戦争を避け平和を叫び祈りたいものです。
そう訴え、結んでいる。
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