残された教師の誓い − 2度目の執筆 | '98/8/1 |
「書いて出した記憶は全くないんです。原爆については避けて生きてきましたから。しかし、伝え残さなくてはいけないと思っていたんでしょうねぇ…」 東京都町田市に住む東岸(ひがし)初江さん(74)は、広島市に保存されている自筆原稿のコピー十四枚を手に自問自答した。冒頭に「原子爆弾体験記 馬場初江」と、きちょうめん面な文字でしたためてある。被爆五年後に書いた体験記を繰りながら重い口を開いた。
「女専(広島女子大)を卒業して進徳高女(進徳女子高)に勤めましたのは、昭和十八年です」。戦時下の新人教師は、国の学徒動員令により一九四五(昭和二十)年春から十四、十五歳の生徒たちを引率して、広島市中区の福屋百貨店七階の広島貯金支局に出た。爆心からわずか〇・七キロ。 自らを責めるように話す。「生徒の多くが亡くなったのに、教師の私が無傷で助かった。親御さんや遺族に申し訳なく…」。罪悪感にかられた。広島駅で被爆して重傷を負った母の介護もあり翌年、実家近くの西区にある別の女子高に移った。 投稿後広島離れる 広島、長崎両市がまとめた調査記録によると、〇・五キロ以内の爆心地域は九〇%以上、一キロ以内は八〇%以上が「即日またはそれに近い状態で死亡」と推定している。だが、奇跡的に助かった人たちに心身の傷がなかったわけでない。 「生き残った負い目と言いますか、被爆した者の本当の気持ちは…。分からないんじゃないでしょうか」。胸に秘める思いを穏やかに言い切った。 記憶にない「原子爆弾体験記」は、被爆間もなく書き留めたメモによっていた。募集に応じた翌五一年、広島大で教育学を専攻していた夫の克好さんが玉川大に招かれたことから広島を離れた。研究者の妻、子ども二人の母としての生活に追われ、メモはいつしか自宅の引き出し奥で時を刻んだ。 教え子と慰霊碑へ 黄ばんだメモを広げたのは被爆五十周年。東京都原爆被害者団体協議会が「未来への伝言」と題して手記を募っているのを聞き、九〇年に死去した克好さんや子ども家族の写真を飾る部屋で、一人ペンを走らせた。「生徒たちにおわびし、今の若い人たちに戦争・原爆を知ってほしい」との願いに突き動かされた。 被爆から五十年を経て、よくやく書き上げた「原爆体験記」は九十一枚。十一面の特集にある、原爆の火炎をついて背負って逃げた生徒の今村千代子さんは、被爆三週間後に郷里の島根県で亡くなっていた。 東岸さんは、新たな体験記を携えて二年前の夏、広島を訪れ、数少ない教え子たちに配った。その一人、安芸郡に住む沢田(旧姓沖本)スミ子さん(67)は「連絡が取れたのは先生を含めて九人。皆でそろって原爆慰霊碑にお参りしましたが、原爆資料館と福屋には、どうしても足が向きませんでした」と話した。 「未来への伝言」でもある二度目の「原爆体験記」に、東岸さんはこう記している。「この記録に託した私の小さな声が、世界平和の叫びとなるよう、心から叫びたい」―。
広島市が一九五〇年初めて募集した「原爆体験記」。市公文書館に保存されている記録を基に、ヒロシマの軌跡と願いを追う。
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