'98/7/30 |
捧げる慰霊碑120カ所
出会いは偶然だった。昭和三十年。山歩きが好きで、たまたま登った場所で、流れ落ちる水の美しさに見とれた。「とにかく、この水を慰霊碑に捧(ささ)げたい」。その年から、献水を始めた。 安佐北区から南区の似島まで、捧げる慰霊碑は百二十カ所にも及ぶ。一四〇センチ、四〇キロの小柄な体。それだけに若い時分でさえも、リュックに一升ビン二本を入れるのがやっと。今は、ころのついた買い物袋に、二、三本のペットボトルを詰め込むのが精いっぱいである。 爆心地から約二・七キロ。比治山を挟む霞町の陸軍兵器廠(しょう)の託児所(現在は南区霞一丁目、広島大学医学部)で勤務中に被爆した。比治山の防空壕(ごう)で求められた水。「原爆の毒のせいで水が汚れている。飲ませたら死んでしまう」と仲間に言われ、水を渡すことはできなかった。
「もしも人間が生まれ変われるものなら、平和な今の広島に生まれ、あの時断たれた命を存分に生きてほしい」。宇根さんは、この思いを胸に、二十五回目になる献水式に臨む。
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