中国新聞社

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'98/7/28
(6)スクラムの模索

「原爆と人間展」会場で、被爆者の越智さん(手前左)と話し合う「呼びかけ人の会」のメンバーたち
 米空母寄港を機に結

 二十四日、札幌市中心部の道民活動センターで「原爆と人間展」が幕を開けた。六百平方メートルの会場には、被爆写真パネル七十枚と、溶けたかわらやラムネ瓶などの被爆資料十点が並べられた。

 学生、お年寄り、主婦らが三々五々、訪れては、被爆の実相にじっと見入っている。被爆者、芸術家、弁護士、学者、医師ら二十六人でつくる「非核・平和の北海道の実現を求める呼びかけ人の会」が初めて主催した企画展である。

 「今回は、いろんな分野の人たちに支えられて、心強かった」。会場の一角で、北海道被爆者協会の越智晴子会長(75)=札幌市白石区=が張りのある声を響かせた。

 医師の父が病院を開業していたインド・ボンベイ(現ムンバイ)で生まれ、生後数カ月で父の実家のある愛知県へ戻った。

 二十二歳のときだった。あの日はたまたま、爆心から約一・六キロの広島市中区千田町にあった兄の家に来ていた。

 朝食が終わりかけていた時、背後から爆風を受け、四十カ所に傷を負った。逃げる途中、救護所に置き去りにした三人の少女のことが今も記憶から消せない。

 生まれ故郷として、身近に感じていたインドが五月、核実験を再開した。「ショックでね。翌日、仲間十数人と繁華街に立って、反核署名を集めたけど、無関心な人波に、いらだちが募ったわ」。

 越智会長が話している間、松田平太郎牧師(68)=札幌市豊平区=は隣に立って、四十四年前に広島を訪ねた時のことを思い出していた。当時同志社大神学部の学生だった。

 観光バスに乗った。バスガイドの顔の左半分には、ケロイドが残っていた。目を背けようとする乗客たちを見渡して、二十歳代後半のガイドは言った。「私の顔をよく見て下さい」

 その後北海道に渡り、教会勤めや高校教諭の傍ら、原水禁運動に参加した。ガイドの姿が、ずっと心の底にひっかかっている。

 原爆と人間展のオープニングセレモニーでは、太平洋戦争の激戦地、沖縄・読谷村をテーマにした女声合唱「よみたんのうた」が披露された。

 作詞、作曲は札幌大谷短大の木村雅信教授(56)=札幌市西区。三十年前、ユダヤ系米国人画家、ベン・シャーンが「第五福竜丸」を描いた展覧会を見て、反核運動にかかわった。白いあごひげを揺らし、指揮をした。

 三人は「呼びかけ人の会」の仲間である。結成は昨年十月。米空母の小樽港寄港がきっかけだった。昨年夏、広島市が札幌で開いた原爆展を定着させるのが今回の企画展の狙いだった。

 分裂している原水禁運動の一方の旗頭である北海道原水協が事務局を務めた。原爆展の運営や内容をめぐって意見の対立もあったという。「もう一つの団体も含め、だれもが気軽に参加できる運動に発展させたいんだが…」と会員の一人は漏らす。

 原爆展は二十七日、閉幕した。四日間で、約千三百人が被爆の実相に触れた。二十六人の模索は続く。



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