中国新聞社

人類は生きねばならぬ

亡き被爆者の思い代弁
新たな発信
'98/7/26
(4)核大国への旅

被爆者仲間から花束を贈られ、米国での平和行脚の抱負を語る木原さん(左から2人目)
 憤りバネに人生の総決算

 「みなさんの分身となり、被爆者の思いを伝えてきます」。今月十六日、徳山市の勤労産業福祉センター。日本被団協の米国行脚団に参加する木原千成さん(67)=防府市須貝=は壮行会で、花束を手に白髪交じりの頭を下げた。

 目を閉じると、昨年四月に六十五歳で亡くなった妻綾子さんの姿が浮かぶ。長年リウマチを患い、十五年前から寝たきりだった。

 六年前、綾子さんが「そばにいてほしい」と言った。会社勤めの傍ら、徳山被爆者の会の事務局長の仕事に専念し、家庭を顧みなかった。綾子さんが初めて口にした訴えに、胸が痛んだ。被爆者運動の第一線から退いた。

 手の痛みがひどく、娘のおしめは口と足で代えていたことも知った。食事をつくり、妻の看病を続けた。名医がいると聞いて、全国を回った。衰弱し、体重が二十三キロにまで減った綾子さんの死はつらかった。

 「これからの人生を、どう生きればいいのか」。空虚感を埋めるため、体験の証言活動を再開した。

 B29からの核爆弾がさく裂した瞬間、目にした黄色のせん光。血で染まったブラウス姿で、奇声を発しながら逃げ惑う女性。火の海になった街…。地元の小中学校で、五十歳以上離れた子どもたちに伝えた。昨年暮から十三校を回った。

 インドとパキスタンの核実験に憤りがわいた。「原爆の被害が伝わっていない。核大国の考えを変えさせなければならない」。米国行脚に迷わず応募した。防府市長からの平和メッセージも預かった。

◇   ◇   ◇

 木原さんとともに、遊説団に申し込んだ向井宏子さん(59)=川崎市=は爆心から二・四キロ、西区南観音町の自宅で被爆した。学徒動員に出ていた兄は爆心近くで死亡。自宅近くで被爆した母はやけどを負った。出張先から帰った父は入市被爆する。

 父は十五年前、母は昨年、病死した。家族の中で、被爆者は一人きりになった。気持ちを整理するため、焼け焦げた母の着物を、中区の原爆資料館に寄贈した。

 これまで、被爆体験を語ったことはない。「こぶしを振り上げる運動でなく、静かに平和を祈り続けたい」。ヒロシマの記憶は胸の底にしまい続けてきた。

 印パの核実験で心が揺らいだ。核で人間を脅そうとする暴力は許せない。「微力だけど、原爆被害を伝える歯車の一つになれれば」。六歳の目で見た惨劇を届けようと思い立った。

◇   ◇   ◇

 日本被団協の行脚団には、全国から四人の被爆者が名乗りを上げた。真夏のワシントンDCを中心に十八日間、平和集会や広島祈念式で被爆の実相をアピールする。

 「原爆で 逝きにし人の 代わりにて われは出で発(た)つ 語り部の旅」。木原さんは趣味の短歌に、人生の総決算としての「証言活動」を詠んだ。

 二十六日、生前の綾子さんの写真を胸ポケットに入れ、日本を出発する。



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