中国新聞社

人類は生きねばならぬ

被爆者1人から反核の輪
新たな発信
'98/7/25
(3)北陸の町で

昨年秋の原爆展を手伝ってくれた仲間と当時を振り返る水野さん(右)=富山県射水郡大島町
 母親ら原爆展開催に奔走

 富山県射水郡小杉町は富山市に隣接する人口三万千七百人の町である。北陸本線の富山駅から普通列車で西へ約十分。田んぼの中に住宅が点在し、南に遠く立山連峰の山々がかすむ。

 まだ田舎の風情を残すこの小さな町で、小学生を持つ母親たち十五人が八月六日に初めて開く「被爆体験の語り継ぎの会」の準備を進めている。公民館で原爆写真パネルを展示し、町内の被爆者の体験を聞く。

 隣の大島町に住むただ一人の被爆者水野耕子さん(67)が昨年十一月、大島町内で開いた原爆展がきっかけだった。水野さん宅の六畳の応接間には、小杉町に貸し出すパネルが所狭しとふすまに立て掛けられ、出番を待っている。

 旧長崎市立高女二年生の時、爆心から約三キロの長崎市桜馬場の学校で被爆した。十四歳。爆風で壁に打ち付けられ、一時失神した。自宅まで約二百メートルをはだしで歩いて帰った。途中、水を求める人たちの声がひっきりなしに聞こえた。

 市内で被爆した母、兄、姉二人、妹と六人で山あいへ逃げた。夜になっても町は燃え続けた。炎を背に消火に当たる人のシルエットが浮かんだ。

 長崎市の平和祈念式典に参列したことはなかった。三十七年前、会社員の夫の転勤で富山に移り、さらに縁が遠のいた。一九六六年に父、七一年に母が病死した後、親代わりだった一番上の姉が昨年五月に亡くなった。慰霊のため八月九日、初めて参列した。

 式典の間、あの日を思い出し、涙が止まらなかった。「今、伝えなければ」との思いがこみ上げた。富山へ戻り、原爆展の準備を進める。自らもメンバーとなっている富山県被爆者協議会が、日本被団協から購入した原爆写真パネル四十枚を並べることにし、ボランティアを募った。

 生協の若者ら五人が駆け付けた。人工透析をしながら参加してくれた人もいる。ポスターを手作りし、町長に協力を頼んで公民館を格安で借りた。九日間で五百人が来場した。

 小杉町の主婦岡村祥子さん(41)は、仕事の途中で公民館に立ち寄り、原爆展を見た。無残に焼けた子どもの写真に、同じ年ごろの子を持つ母として声が出なかった。

 会場にあった被爆者の体験集二冊を買って読み切った。「小杉町でも原爆展を開きたい」。今春、巻末にあった水野さんの連絡先へ電話をかけた。しばらくして印パの核実験があった。小学校を回っての参加要請に力がこもる。

 両国の核実験後、日本被団協が作った四十枚一組のパネルが百二十組売れ、在庫がなくなった。三重県内にある人口千七百人の過疎の町からも注文が舞い込む。

 今月に入って急きょ、二百組を作った。十日間で十二組が売れた。一組六万円。パネルを借りて原爆展を開く小杉町の母親グループは、反響をみて購入も考える。

 北陸の町でたった一人で始めた小さな平和運動が広がっている。



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