【よみがえった街で考えること】


■アジア大会の感動から

 1994年10月2日、広島広域公園のメーンスタジアムは第12回アジア競技大会の開会式の興奮にどよめいていました。アジア42カ国・地域からの選手・役員は約6800人。くつろいだ表情でスタンドの市民に手を振り、会場は笑顔に満ちた交流の場になりました。

 OCA(アジア・オリンピック評議会)のアーマド会長はあいさつの中で「広島の皆さんはつねに平和を求めてきました。皆さんは、アジアの希望です」と語りかけました。

■「高感度市民」を目指して

 原爆で焼け野原になった広島は、首都以外の都市で初めて開かれるアジア大会の開催地を引き受けるまでに復興しました。それは多くの市民の働きや世界の人々からの支援とともに、戦後の日本の平和に支えられてはじめて可能だったのです。

 第二次世界大戦が終わった後も、アジアの国々では新たな戦争や国内の紛争が相次いで起きました。人々は命の危険にさらされ、貧しさに苦しみ続けました。今から再建を目指す国もあります。アーマド会長が「アジアの希望」と言ったのもこのためでした。

 大会期間中、アジアの人々が「原爆で破壊された広島がこんなに美しい街になった」と喜んでくれるのを見て、市民は自分たちの責任についてあらためて考えました。

 ―これからも世界に向けて被爆の悲惨な体験を語り続け、平和を訴えよう。アジアをはじめ世界中で起きている国や地域の争い、人権侵害、環境破壊などに目を向けよう。そこにある傷ついた人の痛みを自分の問題として分かち合い、解決のために世界の人々と一緒に考え、行動しよう―。

 それは被爆50年を迎えた1995年の「ヒロシマの心」です。広島の市民はいま、平和運動だけでなく、経済や医療・福祉を通じた国際協力、国内の災害支援や地域活動など多くの場面で、人類の未来に高い感度を持つ市民として活動し始めています。

■地球を平和を感じる場所に

 被爆後半世紀の間に、広島市は 110万人の都市になり、中心部には 100メートルを超す建物が目立つようになりました。平和記念公園や平和大通りの樹木も深い緑に育ち、川の流はゆったりしています。それは広島を訪れるすべての人々のものです。

 平和であってこそ豊かであると、だれもが感じる街にすること。それを地球上のすべての場所で感じられるようにすること。その広島の願いはそのまま、21世紀へ向かう地球の課題でもあると考えています。