大戦終結の直前に作成された国連憲章と戦後まもなく交付された日本国憲法です。2つを読み比べると、その底に流れている動機と考え方に共通点があることに気付くでしょう。広島、長崎の被爆者の中に、「もう戦争はごめんだ」「原爆は2度とあってはならない」と思い、「せっかく生き延びたのだから、平和のために役立ちたい」と考えた人々がいたこととも、共通の基盤を持つものです。みなさんの周りに戦争を体験した人がいたら、戦争が終わった年の秋ごろに、どんな気持ちで過ごしていたか聞いてみてください。そこには日本人の戦後の決意が、きっとあるはずです。
国連憲章や憲法は今も有効ですが、その精神をくみ取り、将来に生かすのはみなさんです。
■国際連合憲章(前文)
われら連合国の人民は、 ※1945年(昭和20年)6月26日作成
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■日本国憲法(前文) 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想を達成することを誓ふ。 ※昭和21年11月3日公布、昭和22年5月3日施行(送りがなは原文のまま)
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「ヒロシマ」を伝え続けて―中国新聞の平和への報道の歩み―
1945年当時、中国新聞社は広島市中区胡町にありました。原爆の爆心地から約 900メートル。建物は大被害を受け、社員 113人が死亡しました。新聞社で働く多くの人を失い、新聞用紙も乏しい中で、戦争が終わりました。
中国新聞社はこのとき、「世界の平和のために役立つ新聞」になろうと決心しました。原爆の被害や広島の復興の姿を詳しく伝え、平和を脅かすどんな問題にも敏感になり、世界中の人と交流して、平和について考えることを日々の活動の基本にしたのです。
連合国軍の占領下で報道に制約があった時代も、市長が朝鮮戦争で原爆を使うなと訴えたこと、年を追って深刻になる原爆の障害のようすなどを刻々と伝えています。
米ソ冷戦の中で核兵器の開発競争が激しくなると、人類にとっての危機を警告し、核軍拡に反対する原水爆禁止の運動のようすを綿密に報道するようになりました。
戦争を起こした国が被爆者に償い、国が核兵器廃絶を誓うことを求めた被爆者援護法制定の運動は、報道の一つの焦点でした。被爆者の暮らしや健康の不安、平和の訴えを、一番近くで見ている新聞だったからです。
しかし、時とともに戦争や原爆の体験は人々の記憶から薄れてきました。中国新聞は被爆の体験を繰り返し伝えると同時に、戦争の中で起きたこと、アジアの人々の日本の侵略行為による苦しみにも目を向けました。
さらに核実験場の近くにいたり、大規模な原発事故で同じように放射能被害に苦しんでいる人々も取材に行きました。それは核時代を生きる人類への、ヒロシマと共通した教訓がそこにあるからです。
長い間、世界の政治を支配してきた東西の冷戦は終わりました。しかしまだ核兵器の恐怖は身近にあります。世界中の人々と手を結んで、「核兵器ゼロの世界」を実現することがヒロシマの切実な願いです。その日まで、中国新聞の平和への報道は続きます。
【主な連載記事】 | ||||
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1945年 | 原子爆弾の解剖 都築博士を囲む座談会▽復興する町内会 | 1971年 | 人類が生き残るために | |
1946年 | 新生一年 原子砂漠に灯は点る▽新生第二年へ本社編輯局 同人座談会 | 1972年 | 被爆二世問題を考える | |
1947年 | 広島の再建を語る | 1973年 | いま原点に 帰ってきた被爆資料▽被爆者援護法を求めて1974年 原爆病院 | |
1948年 | 25年後の完成ヒロシマ | 1975年 | 原爆人生▽実現せぬ援護法▽平和を求めて ▽生き抜いた30年 原爆孤児育成記録から | |
1949年 | 平和都市に寄す | 1976年 | 放射線影響研究所▽石田判決は問う | |
1950年 | 平和祭に寄す | 1977年 | 被爆者の32年▽広島有情 | |
1951年 | 原爆十景その後 | 1978年 | ヒロシマを世界へ▽被爆者は訴えるこれからの援護 | |
1952年 | 原爆モニュメント遍歴 | 1979年 | ヒロシマの証 原爆資料館から | |
1953年 | ヒロシマ建設の歩み | 1980年 | 悲願の援護法 ヒロシマ35年の叫び▽被爆者35年 ▽核時代を生きる ひろしま・米国の対話 | |
1954年 | 原爆二都物語▽星は見ていた九年間 原爆被災者にきく苦闘の跡 | 1981年 | 問われるヒロシマ | |
1955年 | 広島市建設10年の歩み▽あれから10年間私はこうして生きた 原爆孤児青年の生活記録 | 1982年 | 軍縮への道▽ヒロシマを問う | |
1956年 | 帰って来た原爆乙女 | 1983年 | 今、草の根は ヒロシマの広がりを求めて | |
1957年 | ヒロシマ12年 | 1984年 | 被爆者は今▽森滝日記▽もう一つのヒロシマ | |
1958年 | 世界に告ぐ▽ひろしまを繰り返すな 世界の手紙から | 1985年 | 段原の七〇〇人▽アキバ記者 | |
1959年 | ヒロシマの砂 | 1986年 | 36万人の被爆者 被団協運動30年 | |
1960年 | 折りヅルは見ている 原爆医療の実態▽まだ三発目は落ちない 被爆15年 | 1987年 | 広島市原対部 | |
1961年 | 星は静かに動いた▽碑は見つめている | 1988年 | ヒロシマ精神養子 | |
1962年 | ヒロシマの証言 | 1989年 | 世界のヒバクシャ | |
1963年 | 原水協の再建と平和運動▽ヒロシマ十八年目 | 1990年 | 90素顔の平和都市ヒロシマ | |
1964年 | 沖縄の被爆者たち | 1991年 | 原爆小頭児 45歳の夏< | |
1965年 | ヒロシマ二十年▽炎の系譜 | 1992年 | 国連広島会議を前に▽平和のかたち 92ヒロシマ | |
1966年 | ヒロシマの訴え | 1993年 | 亜細亜からアジア▽もう一人の「被爆者」と疎開児たちの戦後 | |
1967年 | ヒロシマは発言する | 1994年 | ヒロシマの形見▽原爆供養塔 50回忌の夏 | |
1968年 | ヒロシマの心▽忘れられた被爆者 韓国からの訴え | 1995年 | 核時代 昨日・今日・明日▽核と人間 | |
1969年 | 原爆教育▽“ヒロシマ”の人権 | ▽検証ヒロシマ1945〜1995年 | ||
1970年 | 核時代を生きる▽ヒロシマ25年 |
核保有国はまだ、「核兵器を持つのが大国の条件」と思い、核戦力による脅しが他の国の軍事的な野心を抑えるのに役立つという思い込みを捨てていません。このため引き続き核兵器を独占しようとする核保有国と、これに反発する非核保有国の対立がいっそう際立ってきました。ヒロシマ、ナガサキはこの中で、被爆体験を基礎に、核兵器をなくすための訴えを粘り強く続けています。
●核兵器の使用は国際法に違反しないか
オランダのハーグに「国際司法裁判所(International Court of Justice=略称ICJ)」という国連憲章に基く裁判所があります。ICJは「世界法廷」とも言われ、国と国の争いに関する裁判をすること、国々の間の取り決めである国際法を基礎に勧告的意見を出すのが主な仕事です。
そのICJに対して、世界保健機関( World Health Organization=略称WHO)と国連総会がそれぞれ、「核兵器の使用は国際法に違反しないか」と勧告的意見を求めました。WHOは1993年 5月、「健康と環境におよぼす点で、戦争や武力紛争において、国家が核兵器を使用するのはWHO憲章を含む国際法に違反するのではないか」と決議。国連総会も1994年12月、「いかなる状況において核兵器による威嚇(いかく)および使用が国際法に違反しないで許されるのかについて、世界法廷に意見を求める」と決議しました。
ICJは、各国政府に意見を求めました。日本の外務省は初め、ICJへの回答として「核兵器の使用は、実定(実際に具体的に定めた)国際法に照らして、国際法に違反するとは言えない」という見解を用意しました。しかし、実際に原爆の被害を体験した被爆者たちは「あんなにむごい方法で、一度に多くの人を殺す核兵器が国際法に違反していないなんて納得できない」と抗議しました。広島、長崎市長や各党の政治家からも異論が出ました。
政府は結局、この部分を除き、「国際法の基本思想である人道主義には合致しないという意味で、国際法の精神に反すると考えている」という趣旨の答えをしました。回答から除かれたとはいえ、「国際法違反とは言えない」という政府見解はまだ公式に変更されていません。このため国内では、ICJに「核兵器使用は国際法違反」とする勧告的意見を出すよう働きかける運動とともに、政府の考えも改めるように求める動きが強まりました。
●広島・長崎市長の訴え
1995年10月30日、ICJでこの問題の審理が始まりました。政府はこの直前に、広島、長崎市長を日本政府の陳述の証人とすることを決めました。11月7日、ハーグの世界法廷に立った広島市の平岡敬市長、長崎市の伊藤一長市長は政府見解とは別に、被爆地の願いを14人の裁判官に伝えました。陳述の中で、使用はもちろん開発や貯蔵も国際法に反すると主張したこと、地方自治体の首長が国際的な場で、政府方針の制約を超えることになっても主張を曲げなかったことが、人々に深い感銘を与えました。
広島、長崎市長が陳述をした日、世界法廷の傍聴席には、日本から大勢の平和運動を進めている人たちが詰め掛けていました。広島市の原爆資料館の下には百人近い人々が集まり、ハーグの平岡市長を激励する座り込みを続けていました。「核兵器の使用は国際法に違反する」という訴えは、核兵器のもたらす悲惨な実態を知る人々に共通する思いだったのです。
「核兵器の使用は国際法に違反する」と主張する人々は、次のような国際法の原則や国際的な条約、決議、日本国内の裁判での判決を、その根拠として挙げています。
●日本の「非核三原則」
1968年1月、当時の佐藤栄作首相が国会で、核兵器に対する日本の態度を「核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず」と表明しました。被爆国である日本の政府が国際社会で果たすべき役割にもつながる大切な基本政策です。
しかし、1970年代からアメリカの軍艦が核兵器を持ち込んだ、日本の基地内に核貯蔵施設があるなどとする核持ち込みの疑いがしばしば指摘されました。政府はこの疑いを否定していますが、法律で明確に定めるなどして「非核三原則」を確立することが求められています。
NPTは、非核保有国が新たに核兵器を持ったり、核保有国が非核保有国に核兵器を提供することを禁止した条約です。1968年に国連で採択され、1970年に発効しました。延長会議があった1995年4月現在、核保有国の米国、ロシア、イギリス、中国、フランスを含む 175カ国が加盟。非核保有国には核物質の軍事利用防止のため国際原子力機関(International Atomic Energy Agency=略称IAEA)の査察を受けることが義務づけられています。
討議の焦点は、核保有国が核兵器を独占的に持ったまま、他の国々の核保有を認めず、世界の核軍備を管理していく仕組みを、そのまま延長するかどうかでした。米国などは核兵器を持つ国が増えるのを防ぎ、国際的な核管理をする仕組みが必要だとして、無期限、無条件の延長を主張。日本政府も大筋で同調しました。
しかし非核保有国が強く反発したため、核保有国は、「非核保有国への安全の保障」を約束して説得しました。核を持たない国が核兵器で攻撃されたり、脅かされたりしたら、核保有国がその安全を守るという約束です。核保有国は兵器用核物質生産禁止条約の交渉開始にも合意、大詰めを迎えた包括的核実験禁止条約(Comprehensive Test-Ban Treaty =略称CTBT)の実現にも努力を表明しました。
しかし世界の多くの国々が核保有国の独占体制に批判を持っていること、核兵器をつくる技術情報も、核物質も、発効当時と比較にならないほど世界に広がった現実を考えると、NPTでいつまで核拡散を防げるかは大きな疑問です。被爆地・広島では核兵器廃絶への道筋を明確にしないまま無期限延長されたことに、失望の声が起きました。
●NPTからCTBTへ
核兵器を持つ国を増やさないことを狙った条約(NPT)の効力が無期限に延長された―。この決定について世界の平和を願う人たちは、独占的に核兵器を持つ国々が率先して核軍縮をし、核兵器廃絶のための国際的な環境をつくる責任を負う必要があると考えました。そして、核保有国は核実験を全面的に禁ずるCTBTの早期調印に努力すべきだと考えました。
CTBTの1996年中の調印に向けたジュネーブ軍縮会議は、96年1月に新しい会期に入り、各国の協議が続いています。しかし協議の過程で、核保有国が条約から小規模の核実験を除外しようとする動きを見せたり、中国のように平和目的の核実験を認めるよう主張する国も出てきました。世界が期待した通りの条約が実現するかどうかは、会議に参加する各国政府の核軍縮への情熱にかかっています。
国連で核拡散防止条約(NPT)の無期限延長が採択されて4日後の1995年5月15日、中国は新彊ウイグル自治区の実験場で通算42回目の核実験をしました。
中国政府は核実験のたびに「中国の核実験は防衛的なもので、核兵器を先制使用することはない」と言ってきました。この時、中国外務省は「核実験問題で中国は一貫して非常に自制した態度をとってきた」と言いました。しかし国際的には、包括的核実験禁止条約(CTBT)が成立するまでに次の核開発に備えた実験を急いだ、とする受け止め方が一般的でした。
中国は8月にも続いて実験をしたため国際的な非難を受けました。日本政府は中国に抗議すると同時に中国への無償援助支出を凍結する措置をとりました。核兵器の開発に多額の財政資金を費やす国に、無償の経済支援を続けるのは理屈に合わないというのがその理由でした。
中国の軍事予算は90年代になって年率10%近いペースで膨らんでおり、周辺の国々はその軍備拡張政策に大きな不安を抱いています。中国が核兵器だけでなく通常兵器も含めた軍縮に転換するかどうかは、アジア全体の平和にとって重要な意味を持っていると言えます。
●新たな核開発
フランスは、就任して間もないシラク大統領が95年6月に「南太平洋のポリネシアで来年春までに7、8回、核実験を行う」と発表しました。フランス政府当局者は、核爆発実験をしなくても核弾頭の性能を維持し、核開発を続行できるシュミレーション技術を確立するためのデータ収集が実験の目的だと説明しました。
これに対し、アジア・太平洋地域の各国が反対の政府談話を発表。広島、長崎はもちろん、世界中の人からも非難の声が上がりました。しかし、フランスはこの国際世論に耳を貸さず、9月に一連の核実験を始め、96年1月に6回目の実験をした直後に実験計画の終結を発表しました。このときフランス政府は今後はCTBTの締結に全力を尽くすと声明。その身勝手な態度に対しても批判が出ました。
世界の抗議を無視したフランスの核実験は、米国やロシアに比べて遅れた核戦力を補強し、核抑止力を維持することを狙ったものでした。それは核保有国が果てしない核軍備競争にのめり込んだ戦後の歩みを引き継ぐものでした。ポリネシアのムルロア環礁、ファンガタウファ環礁はフランスが長く植民地支配し、核実験場にしてきた場所です。南太平洋の国々には海域の放射能汚染の不安も根強くありました。
このため実験が続く間、国際世論の反発は強まるばかりで、国連総会は核実験の即時停止を求める決議案を採択、フランス国内でもシラク政権への批判が続きました。
フランスの核実験強行の中で、専門家からは(1)地下の核爆発実験を禁止しても、より検証しにくい「実験室の中の核開発」が残る(2)新しい核開発技術を通して核保有国の系列化が進む可能性がある―との指摘がありました。これは96年のCTBT交渉の焦点でもあります。同時に、核実験反対の運動を通して世界の人々が交流した経験を、核兵器廃絶を求める世論に育てていくことも大切な課題になりました。
核兵器廃絶の願いに反する核実験が続き、核大国が核兵器を温存しようとする動きがあり、軍事力による国際緊張もまだ跡を絶ちません。それでも広島市民は、世界の平和を願う人たちと語り合い、小さな願いを大きな声にするために、国々の争いを市民同士の力で防ぐために、被爆50年以後へ一歩を踏み出しました。
●アメリカで原爆展 「原爆投下」の事実をどう受け止めるか。日米双方の見方が出合う場にもなったアメリカン大(米ワシントン)の原爆資料展(7月8日) |
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●被爆50年展 ヒロシマの願いを世界へ。中国新聞社が原爆・平和報道50年の歩みを展示(10月14日) |
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●ドーム世界遺産化へ 原爆ドームを世界遺産に登録して核被害の記憶を永久に残す運動が報われた。政府がユネスコの世界遺産へ推薦した日、広島で運動をしてきた人々がドーム前に集まった(9月21日) |
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●パグウオッシュ会議 例外のない核実験の禁止などを求めた会議の「声明」を発表するロートブラット会長(左から3人目)ら(8月1日、広島国際会議場) |
ヒロシマと世界95〜96 | |
1995年 | |
1・17 | 阪神・淡路地方で大地震発生この年中に震災死者は6千人超す |
1・30 | 米スミソニアン航空宇宙博物館が計画した「原爆展」が実質中止と決定 |
3・20 | 東京で地下鉄サリン事件(サリンは旧ナチスドイツが開発した科学兵器) |
5・11 | 国連NPT延長・再検討会議がNPTの無期限延長を決定 |
5・15 | 中国が地下核実験 |
6・9 | 衆院が戦後50年の国会決議 |
6・11 | フランスが地下核実験再開を発表。南太平洋ムルロア環礁で、8回予定 |
7・1 | 被爆者援護法施行 |
7・8 | 米ワシントンのアメリカン大学で原爆資料展始まる。9日広島市長が講演 |
7・24 | 広島で45回パグウォッシュ会議開く。「核兵器のない世界」をテーマに |
7・31 | 広島で「こども平和のつどい」開く。11カ国・地域の子供660人が集う |
8・6 | 被爆50年の平和式典。6万人参列 |
8・17 | 中国が地下核実験。通算43回目 |
8・30 | 日本政府が核実験に抗議し、中国への無償資金協力の凍結を発表 |
9・5 | フランスが核実験再開。続いて10・1、10・28、11・21、12・27にも実験 |
9・6 | 中国新聞の被爆50年報道に新聞協会賞 |
9・21 | 文化庁が原爆ドームの世界遺産リストへの登録推薦を決める |
10・14 | 中国新聞社が「原爆・平和報道50年展」開く。ヒロシマの軌跡と復興たどる |
10・22 | 国連創設50周年記念総会が開幕 |
11・7 | ハーグのICJで広島・長崎市長が核兵器の使用は国際法違反と口頭陳述 |
12・10 | パグウォッシュ会議とロートブラット会長にノーベル平和賞 |
12・12 | 国連総会が核実験即時停止を決議 |
1996年 | |
1・22 | 秋までにCTBT調印を目指し、ジュネーブ軍縮会議が96年度会期入り |
1・28 | フランスが再開後6回目の核実験。30日、シラク大統領が計画終了を発表 |
原爆の悲惨な現実と核時代のモラルを語る街であり、世界の人々とより良い生存の在り方を語り合う街であることは、今後も変わりありません。祈りの静けさと発散する力を育てながら歩み続けた街の活力も、ヒロシマ50年のもう一つの姿です。
●「広島カープ」の発足〈1949年1月15日〉
この日、プロ野球の広島県民、市民の球団「カープ広島野球倶楽部(現在の広島東洋カープ球団)」発会式が、今の市民球場近くで開かれました。市民2万人が集まり、「一日も早くセ・リーグの覇者に」と初代の石本秀一監督らを激励しました。
当初の球場は観音の広島総合グラウンドでしたが、ファンが酒樽(さかだる)を使った「たる募金」に応じた資金などを生かし、1957年7月22日に現在の広島市民球場ができました。当時、選手の中にも少年時代に被爆し、あこがれの野球選手になった人がいました。スタンドで声援を送る人も郷土の球団に夢を託しました。
Bクラスの成績が長く続きましたが、その間もずっと復興にかける市民を楽しませ、連帯の輪を育てる「街の主役」でした。その広島カープは被爆30周年の1975年に初のリーグ優勝を飾り、赤いヘルメットは、地域とともにある球団として活躍を続けています。
●国民体育大会〈1951年10月27日〉
第6回国民体育大会秋季大会が31日までの日程で開幕しました。当時の広島市はガレキからの再建が始まったばかり。平和記念公園の建物も建設の最中です。開催できたのは全国の人々の励ましのおかげでした。広島県は1996年に二度目の国体開催地を引き受けました。今度は広島が恩返しをする番です。
●FFの誕生〈1977年5月3日〉
8月6日の平和祈念式が静かな祈りと決意の式典であるなら、人々の生存の喜びを表現する動の祭典を緑の季節にと、第1回「ひろしまフラワーフェスティバル(略称=FF)」が開幕しました。
3〜5日の3日間、平和記念公園を中心にした平和大通り一帯が祭りの広場になりました。パレードには大人も子供も、町の仲間も外国からのゲストも、中国四国地方の文化団体も、役所も企業も参加しました。
戦後復興の中で、全国から贈られた樹木が植えられた平和大通りは、年々大きく鮮やかな緑に育ってきました。地域と世界を結ぶこの祭りは、花と音楽と多彩な人の輪に包まれた楽しいイベントです。そして、多くの人に「平和の尊さ」と「心の垣根を取り払うことの大切さ」を実感させるものでした。
FFは1977年以来、毎年同じ日程で開かれ、1995年で19回を数えました。3日間の人出は 120〜 170万人で、この時期の全国の人出の中でも有数のイベントになっています。
その年ごとにテーマが設定され、1994年は広島アジア大会、1995年は被爆50周年を迎える市民の気持ちを表した内容になりました。祭りの提唱者でもある中国新聞社は、毎年の企画や実施にも協力しています。
●広島アジア大会〈1994年10月2日〉
「第12回アジア競技大会・広島」が10月2〜16日、広島広域公園のビッグアーチを主会場に広島市と県内各地で開かれました。
参加した国・地域42、選手・役員6800人。競技数も含めて過去最大の規模になりました。広域公園をはじめ多くの競技会場が新設され、本通−広域公園の新交通「アストラムライン」もこれに合わせて開通しました。
規模や施設より、大会の大きな遺産は、地域の公民館がアジアのどこかの国を応援する「一館一国・地域運動」など、アジアの人々と交流する心が市民に定着したことでした。
明日への伝言
ヒロシマを
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◆「原子爆弾でいっきょに非常に多数の民衆が死亡したという事実によって、人間の良心がラク印をつけられたと考えないものはあるまい。人間の良心がこの痛手からたやすく回復するとは思われない」
(1945年8月16日、カンタベリー寺院のフィッシャー大僧正が英国議会の上院で)
◆「僕たちは両親を失い、家を焼かれ、何もなくなりました。お母さんたちに連れられて海山へ行くお友達を見るとうらやましいと思います。しかし僕たちは泣きません。立派な人になって広島を早く平和な町にするため、いっしょうけんめい勉強しています」
(1946年8月5日、広島戦災孤児育成所から広島一中に通う13歳の少年が広島市平和復興市民大会で)
◆「二つの都市の市民の努力によって 美しい平和文化の花を咲かせることができた暁(あかつき)には かえって 人類の誇りとなる地上の二つの楽園となりはしないでしょうか 同じ使命を持つ 広島 長崎の青年諸君の華やかな前途をお祝い致します」
(1950年5月6日、原爆による白血病に倒れながら「長崎の鐘」などの本で平和を訴えた長崎の医師、永井隆博士が「原爆都市青年交歓会」に訪れた青年たちに贈ったメッセージ。永井博士は翌年5月に亡くなった)
◆「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そのような兵器が人類の存続を脅かしている事実からみて、私たちは世界の諸政府に彼らの目的が戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然と認めるよう勧告する」
(1955年7月9日、『ラッセル・アインシュタイン宣言』=英国の哲学者バートランド・ラッセル、米国に亡命していた理論物理学者アルベルト・アインシュタインの二人の世界的な学者が出した声明)
◆「原水爆被害者の不幸な実相は広く世界に知られなければなりません。その救済は、世界的な運動を通じて急がなければなりません。それが本当の原・水爆禁止運動の基礎であります。原・水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことができます。私たちは世界のあらゆる国の人々が、政党、宗派、社会体制の相違を超えて、原水爆禁止運動をさらに強く進めることを世界の人々に訴えます」
(1955年8月8日、初の原水爆禁止世界大会が発表した「広島アピール」、後に日本原水爆被害者団体協議会理事長を務めた森滝市郎氏らが起草した)
◆「広島は世界平和のメッカです。広島大学の教授や学生のみなさん、そして広く市民の方々は世界平和を守るための最前線に立っている戦友です」
(1955年12月15日、中国科学院訪日学術視察団の郭沫若団長が広島大学で講演)
◆「あの恐ろしい原水爆を禁止しようという訴えは、広島の運動だけでなく良心を持っているもののすべてが抱いている。私は心からみなさんに共鳴して戦うつもりである」
(1957年10月9日、広島市を訪れたインドのネール首相の「広島市民に贈る言葉」)
◆「 500レントゲンのように大量の放射線を受けると人間は一、二週間で死ぬ。防ぐ手段はない。20メガトン級の核兵器爆発は約2万平方`にわたって致死量以上の放射線を浴びるから、もし20メガトン級核兵器4000発が世界にばらまかれると、全人類が危機に陥るだろう」
(1959年8月5日、ノーベル化学賞受賞者の米国のライナス・ポーリング博士が広島市で講演)
◆「私はもっと早く広島を訪れるべきであったと思う。それは早ければ早いほどよかった。しかし今年になっても決しておそすぎはしなかったのである。日本人はその生涯にすくなくとも一度は広島を訪れるべきである」
(1960年8月、「若い日本の会」メンバーとして広島を訪れた作家大江健三郎さんが中国新聞に寄稿した『ヒロシマ1960』から)
◆「日本に存在するただ一つのものであるこの廃きょは、まことに、あの殺りくが決して二度と起こらないために、みんなが生き、かつ戦うわれわれの意志のあかしである」
(1966年10月10日、広島の原爆ドームを見たフランスの作家、ジャン・ポール・サルトルさんの書き残した言葉)
◆「全世界の女と男、若人と子供、団結せよ!私たちはみんなヒロシマ・ナガサキの生き残りです」
(1977年8月2日、広島市での被爆国際シンポジウムでノーベル平和賞受賞者、ノエル・ベーカー氏が読み上げたアピール)
◆「原爆犠牲者に対し、私たちがうち立てる不朽の記念碑は全面的軍備撤廃しかない」
(1977年8月6日、広島市平和祈念式に出席したアメラシンゲ国連総会議長の声明)
◆「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を破壊します。戦争は人間の死そのものです」「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うこと、広島を考えることは核戦争を拒否することです」
(1981年2月25日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が広島で発表した平和アピール)