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2003.8.2
夏休みの児童らが元気にサッカーボールを蹴(け)っていた。広島市中区舟入南の舟入小。
近くの西川口町に住む笹村弘志さん(94)は「朝礼台はあの辺りでした」と、かくしゃくと歩を進めた。同じ町内の中川千恵子さん(64)は「先生、柳はあそこらですか」と続いた。二人は、原爆がさく裂した瞬間この校庭にいた。 破片の下敷き 一九四五年四月から始まった市内学童の集団疎開で、舟入国民学校は一、二年生を中心に低学年の児童が残っていた。記録によると三百十八人。笹村さんの記憶では、うち百二十人前後が「八月六日」に登校していた。 笹村教頭は、所用で不在の校長に代わり訓話に立った。「食糧事情が悪く皆やせとるでしょ。日差しが強いので、男女別々に大きな柳の下に並ばせ話し始めたのが…」。空を見上げる男子がいた。注意しようとしたら、閃(せん)光が走った。「退避!」。その場に伏せるよう叫んだところで、背にしていた木造二階校舎の屋根など飛んできた破片の下敷きとなっていた。 「気がつくと、子どもらはイモ畑で『お母さん』と泣いとりました」。一年生だった中川さんも「あそこへ逃げたのを覚えています」と目をやった。校庭南側は給食用のイモ畑が広がっていた。 柳の大木が、偶然にも児童を守った。しかし二年生の女子二人が死亡。「学校がやられたと思った」教頭は、警防団の詰め所へ救助を求めにいった。人影はなく、視線の先にはあちらこちらから火の手が見え出した。 やがて、すすけた顔の町民らがぞろぞろと続き、放心したように座り込んだ。日が暮れても親が現れない児童七、八人を集め、校庭でムシロを敷き眠れぬ夜を過ごした。妻子は疎開させていた。 中川さんは上級生の姉たちと一緒に戻った。自宅は倒壊。「残っていた押し入れで寝ました」 笹村教頭は、被爆後も校長代行として、罹(り)災証明をひたすら書いた。「配給ももらえませんから」。市の「原爆戦災誌」によると、舟入や江波、観音地区から校庭には「数千人の罹災者が長蛇の列をなし」た。 運動場で勉強 かろうじて建っていた南校舎も、九月十七日の枕崎台風で屋根が落下。翌年二月、町内会からの材木の寄贈で北校舎跡に平屋教室を造り、授業は本格的に再開された。もっとも教室は足らず、「運動場に机を出しての青空教室でした」。二人とも昨日のことのように話した。市内の国民学校三十九のうち校舎を使えたのは十一校だった。 中川さんは、子や孫も卒業した舟入小で、児童に学校の歴史を語り継いでいる。「鉛筆も最後まで大事に使った。そうした体験を話すと、子どもらは真剣に聞きます」 笹村さんは、七十七の喜寿から修学旅行生に証言してきた。「九十歳になり辞めました。年ですからのぉ」と笑った。毎年八月六日は、ラジオを携えて舟入小を訪れる。平和式典の「平和の鐘」の音に合わせ一人黙とうする。この校庭で祈らずにはおれないからである。
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