――――――(5)
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2003.8.3
「広島駅に降り立つと本当に何もない。その日から店内で寝泊まりしての勤務でした」
広島市南区翠に住む篠原康次郎さん(85)が、旧海軍の軍服姿で日銀広島支店に着任したのは一九四五年十月末。郷里の福岡に復員すると、広島勤務を命じられた。「七十五年は草木も生えぬ」。その言葉に象徴される原爆症が口伝えで広まり、広島への赴任希望者はいなかった。 12社が仮店舗 爆心地三百八十メートルの支店では、当直明けや出勤途上などの職員三十七人が犠牲となり、入隊中の五人も被爆死。三階に一部疎開していた広島財務局(現中国財務局)では十二人が亡くなった。 支店の八月六日は、広島財務局戦時施設課長だった相原勝雄さん=当時(46)=の手記に詳しい。市が五〇年に初めて募った「原爆体験記」に寄せている。遺族の了解を得て一部を引く。 「南通用門入口には重傷を負った幾多の職員と全身焼きただれて苦しむ見知らぬ女車掌や乳呑(ちのみ)児(ご)を抱いている可憐(かれん)な婦人などで足の踏み入ることも出来ない(略)断末魔の叫び、水を呼ぶ声、苦(悶(もん))のうめき、実に凄惨(せいさん)を極め…」 市内金融機関の状況は、本店への八月十一日付報告書がある。「残レルモノ本行、旧合同貯蓄ノミ」。そうした中、岡山支店からの応援もあり八日に再開し、一階営業室を十二社の仮店舗として区分けし、被災者に預金の払い戻しを始めた。 「お金の出どころは、ここしかないわけですから」。篠原さんが支店に着任後も混乱は続く。呉市に進駐したGHQ(連合国軍総司令部)の軍政団との折衝、軍票の回収…。本店への詳細な連絡は大阪まで出た。電話は復旧していなかった。 天井知らずのインフレによる四六年二月の新円切り替えも、「がれき板でふさいだ窓から粉雪が吹き込む」支店で当たった。そのころ借りていた祇園町(安佐南区)の農家へ夜戻る際は、横川駅(西区)にぽつんと浮かぶ明かりを目標に歩いた。 歩みの表示を 「焼け跡しか知らなかっただけに復興ぶりには驚きました」。支店長として二十年ぶりに見た、変貌(ぼう)した姿も、また鮮烈だった。三年後に現在の広島総合銀行に招かれ、経営者として広島の発展とともに歩んだ。 九二年まで使われた支店は、国の平和記念都市建設法に基づき三年前、市に無償貸与された。イベントに暫定的に開放している市は、芸術・文化活動の発表の場としていく考えを示している。 篠原さんは旧支店を訪れると「原爆の時にできた傷があります」と階段を上がり、「ここです」と視線を促した。二階の大理石の暖炉や木の壁には今も、えぐれた跡がくっきりと残っていた。 「原爆に耐え、復興の礎となった歴史を紹介する表示が、どこかにほしいですね」。穏やかな口調で求めた。内部には建築様式の説明文はある。しかし、「あの日」起きたこと、そこからの人間の、ヒロシマの歩みを伝える視点に欠ける。
原爆被災写真から浮かび上がるのは、悲惨さばかりではない。今を生きるわれわれに歴史を受け継ぐ務めも問い掛けている。
=おわり
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