――――――(3)
|
|||||||
2003.7.31
広島市中区吉島西に住む西亀要さん(75)は、前日の軍事教練でしごかれ「午前八時十五分」はまだ寝ていた。爆心地から一・九キロの広島電鉄千田町変電所近くの寮二階。地面にたたきつけられるようなごう音で飛び起きた。右腕からの出血が体を染めていった。
似島に避難。そこで「広島の空に渦巻く不気味な黒い雲を見て、じっとしとられんようになった」と再び湾を渡った。 明けて七日。復旧作業など三班が組織され、西亀運転士は従業員らの捜索に出た。男性の多くは召集され、一九四三年開校の広島電鉄家政女学校(南区皆実町)で学ぶ十代半ばの生徒らが、車掌ばかりか見よう見まねで運転も務めていた。 原爆投下の照準点となったT字型の相生橋に面する櫓下(やぐらした)変電所では、人間は「目も飛び出て男か女かも…」。西約七百メートルの十日市電停で、遺体そばにあったかばんの口金と切符を切るパンチから何とか生徒と判断した。 女生徒も乗務 戦時下とはいえ当時、七つの川が穏やかに流れるデルタを運転席から見続けた光景は、すさまじいまでに一変していた。 社史などによると、従業員の死亡は二百十一人。生徒も三十人が犠牲となった。車両百二十三両のうち百八両が破損。どれだけの乗客が亡くなったかは不明である。 市内電車は、西に約十五キロ郊外の廿日市変電所を電力源に九日、まず己斐―天満町間が折り返し単線で復旧する。 家政女学校二年だった東区馬木の堀本春野さん(73)は、その電車の車掌の乗務をしていた。 「乗ってくるのは家族を捜そうとする、やけどやけがをした人ばかり。切符や釣り銭はなく、私も立っているのがやっとでした」。学校の寮で被爆した。相生橋そばの旅館で働いていた母赤松アキさん=当時(41)=は行方知れずとなった。 50年間ともに 千田町変電所の送電が再開したのは、戦争終結の玉音放送があった三日後の十八日。広電本社―宇品間も復旧する。十八歳の体力を見込まれ、本社と宮島線の発着地の己斐との連絡に歩いていた西亀運転士は、その日から運転席に戻った。 「下痢便は一カ月続く。髪の毛は抜ける。難儀しました」。身を押しての乗務は使命感からと尋ねたら、「どうでしたかいのぉ」。照れたような笑みを浮かべ、「運賃を取ったという記憶はないです」と、焦土からの発車を語った。市内電車の全線復旧は三年後の四八年十二月である。 五九年皇太子御成婚、七五年カープ初優勝…。アルバムには戦後日本の、広島の節目に運転した花電車や無事故表彰の写真が妻昌子さん(69)によって整理されていた。八七年に定年し、続く五年間は嘱託の車掌。被爆を乗り越え五十年間、市内電車に乗務した。
総延長一八・八キロ。一命を取り留めた運転士や車掌らが再び動かした市内電車は、毎日十万四千人を運ぶ。西亀さんが「同級生です」と呼ぶ入社年次と同じ四二年製造の650形は、四両が今もデルタの街を走っている。
|