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2003.7.30
原爆詩のさまざまなアンソロジーにある「ヒロシマの空」。吉永小百合さんが朗読し三十万枚出たCD「第二楽章」にも入る。作者林幸子とあるのはペンネームだった。初出は日本が連合国軍の占領下にあった一九五〇年十二月にさかのぼる。
「原爆をあれこれ言うと反米、共産主義者と見られたでしょ。峠さんから書かないかといわれ、心配する兄たちにばれないようにしたんです」 旧姓梶谷、川村幸子さん(74)は、打ち明け話をするように声を潜めた。東京都立川市で一人暮らす。子どもは四人、孫は六人いる。だが、「あの詩にあったことは、今もきつすぎて家族にも知らせたくない。忘れたいだけで生きてきましたから」。駅前の雑踏が漂う喫茶店の片隅で、話し声は一段と低くなった。 詩人の峠三吉(五三年に三十六歳で死去)とは教会などで幾度か出会い、優しい人柄に魅せられた。菓子の包装紙に題名なしで一気に書いた詩を見せた。峠は編集していた「われらの詩」での掲載を決め、山代巴と二年後に編んだ「原子雲の下より」にも収めた。 「ヒロシマの空」は被爆の翌日から始まる。 夜 野宿して/やっと避難先にたどりついたら/お父ちゃんだけしか いなかった/―お母ちゃんと ユウちゃんが/死んだよお… 当時、十六歳の幸子さんは山中高女(現・広島大付属福山高)の専攻科生。動員先の己斐上町(西区)の工場で被爆した。父惣一さん(53)は歯科医。家族四人でいた田中町(中区)が防火地帯を設ける建物疎開にかかり、下流川町(同)に移った。父は、兵器廠(しょう)からさらに離れた街中の方が空襲に狙われにくいと踏んだ。 しかし原爆は、デルタの街ごとのみ込んだ。母静さん(46)と弟祐一さん(13)は自宅の下敷きとなって炎に包まれ、惣一さんだけが何とかはい出た。二日後、父と娘は鍬(くわ)を手に焼け跡を掘った。 ぐったりとした お父ちゃんは/か細い声で指さした/(略)/ああ/お母ちゃんの骨だ/ああ ぎゅっとにぎりしめると/白い粉が 風に舞う/お母ちゃんの骨は 口に入れると/さみしい味がする 「あまりにもむなしくて、一緒になるよという感じで口にしました。父は自分を責め…」。急性放射線障害の死はんが広がり、九月一日に息を引き取った。詩に描いた父の臨終は、召集で陸軍船舶部隊(南区)にいた三男の兄に急変を伝えるため立ち会えなかった。 「ヒロシマの空」を発表後は、顧みれば平和運動も混乱していた戦後の荒波にほんろうされた。詩作もやめ、東京に出た。家庭に落ち着いても被爆の後遺症に襲われた。原爆を「忘れたいだけ」と語ったゆえんだ。 それでも地球のいたるところで戦禍が絶えない今の時代に、詩で表せなかった「あの日」そのものを書き残したいとの思いにせき立てられる。 「生き残った者たちが黙っていたら、想像力のない人間が原爆をまた使いそう。書き上げて死のうと思っています」 りんとした声だった。 |